2人の夜
愛華を送り届けて家に戻ると、
玄関のドアを閉めた瞬間、
家の中がやけに広く感じた。
「……なんか、変な感じだね」
「……ああ。静かすぎるな」
二人で笑ったけど、
その笑いはどこかぎこちなくて、
お互いに意識しているのが分かった。
(……どうしよう……本当に二人きりだ……)
胸がざわざわして、落ち着かない。
私はキッチンに向かいながら、いつも通りの声を出そうとした。
「ねぇ、尚文。今夜……何食べたい?」
その時だった。
「……っていうか、今日はぼくが作るよ。
日頃の感謝っていうか……
おもてなしっていうか……
昔から“お前”に一回料理作ってあげたかったし……」
——“お前”。
その一言を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
(……“お前”……?)
中学の頃、
尚文は私のことを名前で呼ばなくて、
ずっと“お前”って呼んでいた。
照れ隠しみたいに、
ぶっきらぼうに、
でも優しくて。
その頃の記憶が一気に蘇って、胸の奥がじんわり熱くなる。
(……久しぶりに呼ばれた……
なんで……こんなにドキッとするの……)
尚文は照れたように視線を逸らしていて、
その横顔が妙に色っぽく見えた。
頬が熱くなるのを自覚しながら、私はそっと振り返った。
「……うん。お願い……」
自分の声が少し震えているのが分かった。
(……今日、絶対眠れない……)
そう思ったのは、きっと私も同じだった。
「じゃあ、冷蔵庫見ていい?」
「うん……どうぞ」
尚文がキッチンに立つのは初めてじゃない。
でも——
“二人きりの夜に作ってくれる料理”
というだけで、
その背中がいつもより大きく見えた。
冷蔵庫を開けて、
材料を取り出して、
手際よく包丁を動かす。
(……こんなに料理できたんだ……)
尚文の横顔は真剣で、
でもどこか照れていて、
そのギャップに胸がきゅっとなる。
「香織、座ってていいよ。今日はゆっくりして」
「……うん」
言われた通りダイニングに座ったけど、
落ち着かなくて、
何度もキッチンの方を見てしまう。
(……なんか……夫婦みたい……)
そう思って、左手を見る。
実は、尚文が家に越してきてから、私は指輪を外した。
それは、決して亮介を忘れたとかじゃなく、けじめを付けて寄り添ってくれた、
尚文への素直な感謝と、尚文への想いの現れだった。
「できたよ」
尚文がテーブルに並べたのは、
得意料理だという、お母さん直伝のパスタだった。
「……すごい。こんなの作れるんだ」
「昔から料理するの好きだったし。
お前に食わせたかったんだよ」
また“お前”。
その言葉に胸が跳ねる。
(……ずるい……)
「いただきます」
一口食べた瞬間、
胸の奥がじんわり温かくなった。
「……美味しい……」
「よかった」
尚文の笑顔が、いつもより柔らかく見えた。
二人きりの食卓は静かで、でもその静けさが心地よかった。
食器を片付けて、
リビングに移動して、
ソファに座る。
いつもなら愛華が真ん中に座るのに、
今日は空いている。
自然と、尚文との距離が近くなる。
(……近い……)
肩が触れそうで、
触れない距離。
尚文が小さく息を吐いた。
「……なんか、変な感じだな」
「うん……」
「二人きりって……
こんなに緊張するんだな」
その言葉に、
胸がぎゅっと締め付けられた。
(……尚文も……
同じ気持ちなんだ……)
私はそっと、
尚文の方に身体を預けた。
「……ねぇ、尚文」
「ん?」
「……今日は……
尚文を独り占めしたいな」
尚文は少し驚いた顔をして、
それからゆっくり笑った。
「……ああ。俺もだよ」
その笑顔を見た瞬間、気持ちが止まらなかった。
ソファの上で、二人の距離がゆっくり縮まる。
肩が触れた。
それだけで、息が詰まりそうになる。
尚文が、
ゆっくりと私の方へ身体を向けた。
その目が、
迷っているようで、
でも、どこか決意しているようで。
(……尚文……)
尚文の手が、
そっと私の頬に触れようとして——
途中で止まった。
ほんの数センチ。
触れられない距離。
指先が震えている。
(……戸惑ってる……
優しいから……
私の気持ちを確かめようとしてる……)
胸がぎゅっと締め付けられた。
私はそっと、その手に自分の手を重ねた。
「……尚文」
名前を呼ぶと、
尚文の目が揺れた。
その一瞬の迷いが、
愛しくて、切なくて、
どうしようもなく胸が熱くなった。
だから——
私は自分から、
そっと顔を近づけた。
ほんの一瞬、
尚文の目が大きく開いた。
そして——
唇が触れた。
軽くて、
柔らかくて、
触れたか触れないか分からないほどのキス。
でも、胸の奥が一気に熱くなる。
尚文が、
驚いたように息を呑んだ。
私は小さく笑って、
囁いた。
「……ずっと、したかったの」
尚文は、
ゆっくりと目を閉じて、震える声で言った。
「……香織……俺も……」
そして、今度は尚文から再び唇を重ねた。




