緊張と私の願い
ナオの実家の玄関の前に立った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
(……ほんとに……来ちゃった)
車の中でナオは
「大丈夫だよ」
なんて軽く言っていたけど——
(いやいや……全然大丈夫じゃないやん……)
手のひらは汗ばんで、
心臓は落ち着かんし、
愛華の手を握る指先まで震えていた。
ナオはインターホンを押しながら、いつも通りの落ち着いた顔をしている。
(……なんでそんな平気そうなんよ……)
そんなことを思っているうちに、
扉が開いた。
「はーい」
ナオのお母さんらしい優しい声。
でも、次の瞬間——
ナオのお母さんは、私と愛華を見て完全に固まった。
「えっ……?あ、あの……こちらの方は……?」
私は慌てて頭を下げた。
「初めまして。香織と申します」
愛華も元気よく続く。
「こんにちは!愛華です!」
お母さんは口元に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
(……尚文……これ……大丈夫じゃないやつじゃん……)
ナオは落ち着いた声で言った。
「母さん。今日は……紹介したい人がいて」
私は心の中でツッコミながら、ぎゅっと愛華の手を握った。
ナオのお父さんが新聞を置いて立ち上がる。
「おお……尚文。
……えっと……こちらの方々は……?」
私は深く頭を下げた。
「初めまして。香織と申します」
愛華も続く。
「はじめまして!」
父の目が少し見開かれる。
(……そりゃそうなるよね……
いきなり知らない女の人と子ども連れてきたら……
だから、事前に伝えてって言ったのに‥‥)
母はお茶を置きながら、ナオをじっと見つめた。
「あんた、日頃電話もして来んのに、いきなり来て。
今日は……どういう話なの?」
ナオは背筋を伸ばし、ゆっくりと話し始めた。
「香織さんは……
オレの中学の同級生で、
今は近くの病院でお医者さんをしてる。
2年位前に旦那さんを亡くして、
今は愛華ちゃんと二人で暮らしてる」
母が息を呑む。
ナオは続けた。
「オレは……
香織さんと愛華ちゃんを支えたいと思ってる。
でも……籍を入れるつもりはない」
父が眉を上げる。
「籍を……入れない?」
ナオは真っ直ぐに言った。
「亮介さん‥‥香織さんの旦那さんであり、
愛華ちゃんのお父さんの存在を……
消したくないんだ。
香織さんにとっても、愛華ちゃんにとっても、
亮介さんは大切な人だから」
その言葉を改めて聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
ナオは続けた。
「例え、籍が入ってなくても、
ぼくは二人を守るつもりでいる。
亮介さんのことも含めて。
三人で生きていく覚悟はある」
「今まで黙っててごめん。
でも、オレはそう決めたから」
その言葉に、
私は思わず息を呑んだ。
(……こんなに……
真っ直ぐに言ってくれるんだ……)
お父さんがゆっくり息を吐いた。
「……そうか。
お前がそこまで言うなら……」
母は胸の前で手を組んだまま、
私と愛華を交互に見ていた。
そして——
「……尚文。
あんた……
いつの間にこんな綺麗な人と知り合ったん?」
私は思わず固まった。
(え……綺麗……?い、いやいやいや……)
ナオがむせる。
「え、いや……その……」
お母さんはさらに続ける。
「しかも……
こんな可愛い子まで連れてきて……
あんた……
隠し子でもおったんかと思ったわ」
「えっ!?」
と変な声が出た。
ナオは慌てて手を振る。
「ち、違う違う違う!!
そんな事ある訳ないっちゃ!!」
父が吹き出した。
「はは……
お父さんも最初そう思ったわ」
(……いや、思ってたの!?……)
お母さんは笑いながら涙を拭った。
「ほんとに……
びっくりしたんよ……
でもね……」
母は私の手をそっと握った。
「こんなに綺麗な人が来てくれて……
それに……
こんな可愛い子まで“家族”って言ってくれて……
お母さん、嬉しいよ」
その言葉に、胸がじんわり温かくなった。
愛華が尚文のお母さんの膝に抱きつきながら言った。
「おばあちゃん、
ナオさんね……
愛華のパパみたいなんだよ」
——空気が止まった。
ナオが息を呑むのが分かった。
(……愛華……今……なんて……)
お母さんは驚いたあと、ゆっくり微笑んだ。
「……そうなんやねぇ。
愛華ちゃんにとって……
尚文は、もう“パパ”なんやね」
父も静かに頷いた。
「なら……もう家族やな」
その瞬間、私は涙が止まらなくなった。
(……ああ……
本当に……
家族になれたんだ……)
ナオの横顔を見たら、彼も少しだけ目を赤くしていた。
その姿に、胸がまた熱くなった。
玄関で靴を履きながら、ナオのお母さんが私の手をそっと握った。
「香織さん、愛華ちゃん。
ここは……あなたたちの実家だと思って、
いつでも来なさいね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。
(……実家……
そんなふうに言ってもらえるなんて……)
ナオのお父さんも、照れくさそうに笑った。
「遠慮せんでいい。
お前も……たまには顔見せろよ」
ナオが「うん……」と苦笑する。
私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
涙がこぼれそうで、必死に瞬きをした。
愛華はお母さんに抱きつきながら、
「また来るね!」
と笑っていた。
(……この家も、愛華にとって“帰れる場所”になるんだな……)
その事実が、胸の奥をじんわり温めた。
車に乗り込んでドアを閉めた瞬間、私は大きく息を吐いた。
「……はぁぁぁ……緊張した……」
ナオが運転席でシートベルトを締めながら、少し笑った。
「大丈夫だったでしょ?」
私は思わず横目で睨んだ。
「全然大丈夫じゃなかったやん!!」
ナオが肩をすくめる。
「いや……まさか、あそこでお袋が
“隠し子かと思った”なんて言うとは思わんかったんよ……」
その言い方が妙に可笑しくて、私は思わず吹き出した。
「ほんとに……私も心臓止まるかと思ったわ……」
ナオも笑いながら頭をかく。
「オレも……」
笑いながらも、胸の奥はずっと温かかった。
(……尚文の優しさって……
あのご両親から来てるんだろうな……
あの家の空気が……
尚文を作ったんだ……)
今日一日で、それが痛いほど分かった。
車を走らせてすぐ、愛華は寝息を立てて眠ってしまった
今日は、たくさん抱っこしてもらったから疲れたんだろう。
国道に出る長い信号待ち。
夕方の光が車内に差し込んで、ナオの横顔を柔らかく照らしていた。
その横顔を見ていたら、
胸の奥にある言葉が、
自然と口からこぼれた。
「……ねぇ、尚文」
「ん?」
「‥‥一緒に暮らしてほしい」
そう言って、私はそっと尚文の肩に頭を乗せた。
尚文の手が、ハンドルの上でぴたりと止まった。
私は続けた。
「今日……
尚文のご両親に会って……
愛華が“パパみたい”って言って……
なんか……
全部、ちゃんと繋がった気がしたんよ」
尚文はゆっくりこちらを見た。
私はまっすぐに言った。
「尚文と……
愛華と……
三人で暮らしたい」
尚文の目が、少しだけ揺れた。
でもその揺れは、
迷いじゃなくて——
胸の奥に広がる温かさの揺れだった。
「……香織」
その声は、今まで聞いた中で一番優しかった。




