夏の夕暮れと新生活
春が終わりかけて、空気の中に少しだけ夏の匂いが混じり始めた。
高校生活にも、ようやく慣れてきた。
朝のホームルームのざわめきも、
授業中に聞こえる誰かの小さな笑い声も、
昼休みの教室の喧騒も、
いつの間にか“日常の音”として耳に馴染んでいた。
新しい友達もできた。一緒に弁当を食べたり、部活の話で盛り上がったり、帰り道に他愛もない話をしたり。
そんな時間が増えていくほど、“高校生になったんだな”って実感が少しずつ積み重なっていった。
でも――
胸の奥のどこかに、
まだ薄い痛みが残っていた。
ふとした瞬間に、卒業式の日の光景が蘇る。
笑っていたアイツ。
驚いた顔のアイツ。
そして、ぼくを見て、何か言いたげだったアイツ。
(……もう会えないから仕方ない)
そう思うことで、あの日の痛みをそっと胸の奥に沈めていた。
そしてこの間、たまたまアイツの実家の前を通った時に、引っ越して空き家になっているのを見かけた。
(……帰省でここに帰ってくる事も無いのか。もう二度と会えないかもな。)
そう思うと、余計に自分の気持ちを奥底に沈めようとした。
その痛みは誰かに話すことはなかった。
高校生活は楽しい。でも、どこかに“空白”がある。
そんな感覚を抱えたまま、ぼくは毎日を過ごしていた。
放課後の廊下に差し込む光は、
中学の頃より少しだけ眩しく感じた。
(……もし、また会えたら)
そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ情けなくて、でも、どこかで期待している自分もいた。
☆☆☆
高校に入って、三ヶ月が過ぎようとしていた。
ここは県外の、全寮制の進学校。
寮の朝は早い。
六時のチャイムで起こされて、食堂に向かう廊下にはまだ眠気の残った足音が響く。
教室の窓から見える景色も、中学の頃とはまるで違う。
知らない街。
知らない人たち。
知らない空気。
全部が新しくて、全部が少しだけ堅苦しく思えた。
でも――この学校を選んだのは、自分だ。
お医者さんになりたい。
その夢を叶えるために、ここに来るしかなかった。
そう分かっていたのに。
胸の奥には、まだ小さな痛みが残っていた。
卒業式の日のことを思い出すたび、胸が締め付けられる。
あの幼馴染の男子に呼び止められた瞬間の空気。
ナオが立ち止まった時の表情。
目が合って、すぐにそらされたあの一瞬。
(……言えなかった)
その言葉が、寮の部屋の静けさの中で何度も蘇る。
夜、消灯後の薄暗い天井を見つめていると、ふとナオの横顔が浮かぶ。
(……もう会えないのかな)
そう思うたびに、胸の奥が少しだけ痛くなる。
寮の友達は優しい。
勉強も部活も楽しい。
毎日は忙しくて、充実している。
でも、どこかに“空白”がある。
その空白に、ナオの名前が静かに残っている。
誰にも言えないまま、その気持ちだけが胸の奥で静かに佇んでいた。
☆☆☆
数か月が経ったある日の昼休み、教室の窓から差し込む光が机の上に落ちていた。
新しい友達と他愛もない話をして、笑い声が自然に出るようになってきた頃。
その中の同じ中学から同じ高校に来ている連れのひとりが、何気ない調子で言った。
「そういえばさ、中学の時にいたあの副委員長してたヤツ、覚えてる?なんか性格キツかったよな〜」
ぼくの手が、ほんの少しだけ止まった。
名前は出していない。
でも、誰のことを言っているのか分かった。
胸の奥がチクッとした。
友達は続ける。
「なんかさ、男子にモテるのに愛想ないっていうか。ああいうタイプ苦手なんだよね〜」
笑いながら言うその声が、なぜか遠く聞こえた。
ぼくの中で、何かが静かに揺れた。
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「……そんなことないよ」
友達が驚いたようにこちらを見る。
ぼくは続けた。
「アイツ、優しいよ。人のことよく見てるし、誰かが困ってたらすぐ気づくし。ただ……不器用なだけなんだよ。」
言いながら、自分でも驚いた。
こんなふうに誰かの前でアイツのことを擁護するなんて、考えたこともなかった。
でも、言わずにはいられなかった。
友達は少し気まずそうに笑った。
「え、あ、そうなんだ。知り合いだったんだ。ごめん、悪く言うつもりじゃなかったんだけどさ。」
ぼくは首を振った。
「……うん。大丈夫。分かってる」
それ以上は何も言わなかった。
でも胸の奥では、ずっと沈めていた想いが静かに波紋を広げていた。
(……やっぱり、忘れられてないんだな)
自分でも気づかないふりをしていた気持ちが、その瞬間、はっきり形になった。
窓の外では、夏の匂いを含んだ風が校庭の木々を揺らしていた。
———夏の特別講習が終わった頃には、空はもう夕方の色に変わっていた。
教室の冷房の名残がまだ肌に残っているのに、外に出た瞬間、むわっとした夏の熱気がまとわりつく。
(……遅くなったな)
いつもより一本遅いバスに乗り、窓際の席に座って流れる景色を眺めた。
夏の夕方特有の、少し寂しくて、でもどこか懐かしい空気。
ぼくは、小さく「ふうっ・・・」と息を吐く。
乗り換えのためにターミナルで降りると、夕方の風がそっと頬を撫でた。
人の流れはまばらで、バスのエンジン音だけが低く響いている。
ぼくは次のバスの時刻表を見ようとして、ふと視線を横に向けた。
その瞬間――
呼吸が止まった。




