墓前にて
墓石に水をかけると、冷たいしずくが静かに流れ落ちた。
ぼくはタオルで丁寧に拭き取りながら、胸の奥が引き締まるのを感じていた。
(……やっと来れました、先生)
香織に「墓前に行きたい」と話してから、
ちょうど一か月が経っていた。
その間、香織は何度も迷って、
何度も立ち止まって、
それでも今日ここに来ることを選んだ。
ぼくの隣では、香織と愛華ちゃんが並んで花を替えている。
「ママ、これどこにさすの~?」
「ここだよ。ほら、優しくね」
香織の声は少し震えていたけれど、
その手つきはとても丁寧だった。
花が整い、
墓石がきれいになり、
線香の煙が静かに立ちのぼる。
三人で並んで手を合わせた。
目を閉じると、
風の音と、
線香のかすかな香りと、
香織の静かな呼吸が耳に届く。
ぼくはゆっくりと目を開け、墓石に向かって口を開いた。
「……ご無沙汰していました。先生。」
「以前、病院の廊下でご挨拶させて頂きました。覚えていらっしゃいますか?」
声が震えた。
でも、力を込めて言葉を紡ぐ。
「ぼくは……
香織さんと愛華ちゃんを大切にしたいと思っています」
香織が小さく息を呑む気配がした。
「あなたが守ってきた二人を、ぼくも……守りたい」
胸の奥が熱くなる。
「香織さんが今日ここに来るまで、
どれだけ迷って、
どれだけ苦しんだか……
ぼくはそばで見てきました」
香織の肩がわずかに震えた。
「あなたが香織さんを支えてくれたこと、
愛華ちゃんを愛してくれたこと……
ぼくは心から感謝しています」
線香の煙が、
まるで返事のように揺れた。
「ぼくは……
あなたの代わりにはなれません。
でも……
あなたが大切にした二人を、
ぼくも大切にしたい」
香織がそっとぼくの手を握った。
その手は震えていたけれど、
確かに“前に進もうとしている手”だった。
愛華ちゃんが小さな声で言った。
「パパ……愛華、ママとナオさんと一緒に来たよ」
その声に、香織が涙をこぼした。
ぼくはそっと香織の手を握り返した。
(……先生。
ぼくは、あなたが愛したこの二人を、
これからも一緒に守らせてください)
そう思った瞬間、
線香の煙がゆらゆらと揺れて、その向こうに刻まれた名前が、
胸の奥を静かに締めつけた。
☆☆☆
(……来たよ)
声に出す前に、心の中でそっと呟いた。
ナオが隣で手を合わせている。
愛華は小さな手を胸の前でぎゅっと組んで、真剣な顔で目を閉じている。
その姿を見ているだけで、胸が熱くなった。
でも——
夫の名前を見た瞬間、
足がすこし震えた。
(……ごめんね。こんなに時間がかかって)
ゆっくりと息を吸い、墓石に向き直った。
「……来るの、遅くなって……ごめんね」
声が震えた。
「あなたがいなくなってから……
ずっと、どうしていいか分からなかった」
言葉を紡ぐたび、胸の奥が痛む。
「愛華を守らなきゃって思って……
でも、私の方が壊れそうで……
あなたの前に立つのが……怖かったの」
涙がひと粒、落ちた。
「あなたのことを忘れたくなかった。
でも……思い出すのも苦しくて……
どうしたらいいか分からなくて……
ずっと逃げてた」
ナオがそっと、私の手を握ってくれた。
その温かさに、
胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「でもね……
ナオが……」
ここまで言って、涙があふれた。
「‥‥ナオさんが、私と愛華を大切にしたいって言ってくれて……
あなたに“ありがとう”を伝えたいって言ってくれて……」
言葉が震える。
「その時……やっと、あなたの前に立てる気がしたの」
線香の煙が、
まるで優しく包むように揺れた。
「あなたが守ってくれた愛華は……
今、とても元気で……
笑顔がいっぱいで……
あなたのことが大好きで……」
愛華が小さく「パパ……」と呟いた。
胸がぎゅっとなる。
「そして……
私も……
あなたが守ってくれたおかげで……
今、ちゃんと立ってる」
涙が止まらなかった。
「あなたの代わりなんていない。
あなたのことを忘れることなんてない。
でも……
私は……前に進もうと思う」
ナオの手が、そっと強く握り返してくれた。
「あなたが愛してくれた私と愛華を……
これからは、ナオさんと一緒に守っていくね」
風がふわりと吹いて、
線香の煙が空に溶けていった。
その瞬間、胸の奥の何かが静かにほどけた気がした。
(……ありがとう。
あなたがくれた時間も、愛も、全部……
ちゃんと抱えて生きていくね)
私はそっと目を閉じた。
お墓をあとにして、
三人でゆっくりと坂道を下っていく。




