内緒の話
香織の涙がひと粒落ちたあと、
彼女はゆっくりとまぶたを閉じ、
深く息を吸った。
そして、顔を上げた。
その目はまだ赤くて、
涙の跡も残っているのに――
どこか、静かな強さが宿っていた。
「……うん。分かった」
小さな声だったけど、その言葉には迷いがなかった。
「私も……きちんと伝える」
香織は視線を落とし、指先をそっと胸の前で握りしめた。
「……彼に。それから……ご両親にも」
ぼくの胸が、じんわり熱くなった。
香織は続けた。
「今の私の気持ちを……
ちゃんと伝えなきゃいけないと思ったの。
逃げたままじゃ……前に進めないから」
その言葉を聞いた瞬間、ぼくは息を呑んだ。
(……香織は、自分の今と向き合おうとしてる)
アイツ自身が、自分の人生を前に進めるための決意。
その強さが、
たまらなく愛しくて、
胸が痛いほどだった。
ぼくは静かに頷いた。
「香織が向き合おうとしてくれるなら……
ぼくも、一緒に背負う。」
香織は小さく息を呑み、
涙をこらえながら、ゆっくりと頷いた。
次の瞬間――
香織がそっと、ぼくの胸に寄りかかってきた。
驚いたけれど、拒む理由なんてどこにもなかった。
ぼくはゆっくりと腕を動かし、
香織の背中に触れない程度に、
そっと空気を包むように手を添えた。
香織の体温が、胸の奥にじんわり広がる。
(……香織……)
泣いているのか、
こらえているのか、
その震えだけで全部分かった。
ぼくは何も言わなかった。
言葉より、今はただ寄り添うことの方が大事だった。
その時だった。
「ママ~? あれ? ママ泣いてるの?」
愛華ちゃんの小さな声が、部屋の空気をやわらかく揺らした。
香織がびくっと肩を震わせる。
でも、離れようとする前に――
「ママとナオさん、仲良し~!」
愛華ちゃんがぱぁっと笑って、
そのままぼくの腰にぎゅっと抱きついてきた。
「でもね!ナオさんは愛華のだからね~!」
その言葉に、香織が小さく笑った。
涙の跡が残ったままなのに、
その笑顔はどこか救われたように見えた。
ぼくは愛華ちゃんを抱き上げた。
「そっか。ぼくは、愛華ちゃんのなんだな」
愛華ちゃんは満面の笑みで頷く。
そのまま片手で愛華ちゃんを支えながら、
空いた手でそっと香織の頭に触れた。
撫でるというより、
“ここにいるよ”と伝えるように。
香織は目を閉じ、ぼく手にほんの少しだけ体重を預けた。
愛華ちゃんの笑い声と、
香織の静かな呼吸と、
ぼくの胸の奥の温かさが、
ひとつの空気になって部屋に満ちていった。
帰り際、靴を履こうとしていた時だった。
愛華ちゃんが、
ちょこちょこと小さな足でぼくに近づいてきて、
そっと服の裾を引っ張った。
「ナオさん……」
声が小さい。いつもの元気な声じゃない。
ぼくがしゃがむと、
愛華ちゃんはぼくの耳元に顔を寄せて、
ひそひそ声で言った。
「ナオさん、愛華のパパになってくれる?」
胸が一瞬で熱くなった。
愛華ちゃんは続ける。
「愛華のパパ、お空に行っちゃったの。
だからね……
ナオさんがパパだったらいいな~って……
思ったの」
その言葉は、
幼い子の無邪気な願いなのに、
胸の奥に深く刺さった。
(……愛華ちゃん……)
嬉しくて、
切なくて、
胸がぎゅっとなる。
ぼくが返事をしようとしたその時――
「なになに~?愛華、ママに内緒でナオさんと仲良ししてたの~?」
香織が笑いながら近づいてきた。
愛華ちゃんは慌ててぼくの口元に人差し指を立てた。
「しーっ!ナオさん、ないしょだよ~!」
ぼくは思わず笑ってしまった。
「秘密だって」
香織は目を細めて笑った。
「え~、ママも仲良しさんに入れて欲しいな~」
その笑顔は、
さっきまで涙で揺れていた人とは思えないほど柔らかくて、
温かくて、
胸がまた熱くなる。
愛華ちゃんは「いいよ~!」と笑い、
ぼくにぎゅっと抱きついてきた。
愛華ちゃんが、香織の手を引っ張り、
「ママも、ぎゅ~ってしていいよ~!」と無茶振りをする。
「え~はいはい‥‥ぎゅ~ね。」
と言って、愛華ちゃんに合わせながらも流そうとするアイツ。
ぼくは、香織を引き寄せた。
とん。
アイツの頭が、ぼくの肩に当たる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥!」
声にならない驚きが聞こえたようだった。
でも、香織はそのまま、ぼくの肩に頭を預けた。
「愛華と一緒だね~。」
と言って、笑うアイツ。
(……これが、家族ってやつなのかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。




