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お互いの思い

ナオの言葉を聞いた瞬間、


胸の奥がぎゅっと掴まれたように固まった。




(……彼の……お墓……


 ご両親……)




頭では分かっている。


ナオが誠実で、


真剣で、


私たちを大切に思ってくれていること。




でも――




(……まだ……まだ心の準備が……)




亡くなった夫の顔が浮かぶ。


優しかった声。


笑った時の目尻。




そして、


ナオのまっすぐな瞳が重なる。




胸が痛いのに、


同時に温かい。




「……尚文……」




声が震えた。




どう答えればいいのか分からない。


でも、逃げたくもない。




ただ、


心が追いつかないだけ。




私は固まったまま、ナオを見つめていた。




胸の奥がざわざわして、


呼吸がうまくできない。




(……どうしよう……


 どう答えれば……)



(……彼に……なんて言えばいいの……)




亡くなった夫の顔が浮かぶ。


あの人は、私と愛華を心から愛してくれた。




そして今、


ナオもまた、


同じように私たちを大切にしようとしてくれている。




(……裏切りじゃない……


 そんなことは分かってる……)




彼の遺影の前で、たくさんナオの話もした。


私がナオの事を想っている事も伝えた。




でも、


心のどこかで、


まだ“彼”に触れることが怖い。



(……私は……彼を前にして‥‥


そして、彼のご両親に何て言えば良いの……?)



ナオの瞳は、ただ真剣で、


責める色なんてひとつもない。



それがまた、涙が出そうになるほど苦しい。



「……ごめん……ちょっと……」




声が震えて、自分でも驚いた。



逃げたいわけじゃない。


でも、


このまま言葉を返したら、


きっと泣いてしまう。




(……少しだけ……時間がほしい……)



そう思いながら、私は視線を落とした。



ナオが何か言おうとした気配がしたけれど、


その優しさに触れたら、


本当に泣いてしまいそうで――



私はただ、静かに息を吸った。




静かに息を吸ったはずなのに、胸の奥はまだざわついたままだった。



亡くなった夫の墓前で、


私はどんな顔をすればいいのか分からない。




“ごめんね”と言うべきなのか。


“ありがとう”と言うべきなのか。


“前に進むね”と言うべきなのか。




どれも違う気がして、


どれも正しい気がして、


胸が苦しくなる。




(……ご両親にも……


 なんて言えばいいの……)




あの人たちは優しい。


私と愛華を責めたりしない。


それは分かっている。




でも――


だからこそ、怖い。




(……私は……


 あの人の妻だったのに……)


(‥‥でも今は‥‥


ナオの事を好きになってしまっている‥‥)




(……ナオの気持ちが嬉しい……


 でも……


 まだ……怖い……)




視線を落としたまま、胸の奥でそっとつぶやく。




(……どうしたら……


 ちゃんと向き合えるんだろう……)



そんな葛藤が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。



★★★



アイツが視線を落としたまま固まっている。


その肩がわずかに震えているのが見えた。




胸が痛んだ。




(……困らせたな)




ぼくはゆっくり息を吸って、声を落とした。




「……ごめん。香織を追い詰めるつもりじゃなかったんだ」




香織は何も言わない。


でも、その沈黙がどれほど苦しいか、痛いほど分かった。




だから、ぼくはそっと言葉を続けた。




「……香織。ひとつ、話してもいい?」




香織がわずかに顔を上げた。


その目は揺れていて、泣き出しそうで、


でも必死にこらえていた。



ぼくは、あの日の記憶をゆっくりと掘り起こした。




「……大学2年の夏休みの帰省の時さ。


 駅で……香織を見たんだ」




アイツの指先がぴくりと動いた。




「向かいのホームに立ってて……


 吊り革を握って、ぼんやり前を見てて……


 あの時の香織の横顔、忘れられなかった」



アイツが息を呑んだように見えた。



「最初は、見間違いだと思った。


 でも……目が合った瞬間、分かったんだ。


 “ああ、香織だ”って」



ぼくは少し笑った。


あの時の胸の痛みを思い出しながら。



「走ったんだよ。


 スーツケース置きっぱなしで。


 必死で……香織に追いつこうとして」



アイツの目が揺れる。



「でも、ドアが閉まって……


 香織の手がガラスに触れて……


 電車が動き出して……


 ぼくはただ、遠ざかる香織を見てることしかできなかった」



胸の奥がじんわり熱くなる。



「……あの日からずっと、雑踏の中にいるんじゃないか…って、香織を探してた」



アイツの唇が震えた。



「もしあの時、手が届いていたら……未来は違ってたかもしれない。


 でもね、香織‥‥」




ぼくはまっすぐ香織を見た。



「ぼくは、手が届かなくて良かったって今は思ってる。


ぼくは“今の香織”が好きなんだ」




香織の目に涙が溜まる。



「大切な人を失って、


 それでも愛華ちゃんを守って、


 前に進もうとして……


 苦しみながらも、ちゃんと向き合おうとしてる香織が。」



ぼくは静かに言葉を落とした。




「だから、その苦しみごと、ぼくに守らせてほしい」




アイツは目を閉じ、


震える息を吐いた。




拒絶じゃない。


逃げたいわけでもない。




“受け止めようとしている沈黙”だった。



☆☆☆



ナオの言葉を聞きながら、


胸の奥がぎゅっと締めつけられて、


息がうまくできなかった。




唇が震えて、声が出るまでに少し時間がかかった。




「……わたしも……」




かすれた声だった。




ナオが静かにこちらを見る。


その視線が優しすぎて、涙がこぼれそうになる。




「……わたしも、最初……


 絶対ナオじゃないって……思ったの」




言葉を絞り出すように続けた。




「でも……目が合って……


 あの瞬間……“ナオだ”って……分かったの」




胸の奥が熱くなる。


あの日の光景が鮮明によみがえる。




「……でもね……


 ナオに会ってしまったら……


 勉強なんて全部投げ出して……


 ナオのところに行ってしまいそうで……」




声が震えた。




「……怖かったの……」




涙がこぼれそうで、必死にまばたきをした。




「でも……でもね……


 やっぱり……ナオのことが……


 忘れられなくて……」




胸の奥が痛いほど熱い。




「忘れるために……


 必死で勉強して……


 寝る時間も削って……


 自分を追い込んで……」




震える指先をぎゅっと握りしめた。




「……わたしが押しつぶされそうになった時……


 手を差し伸べてくれたのが……彼だったの」




その言葉を口にした瞬間、


胸の奥がじんわり痛んだ。




「彼は……優しくて……


 わたしが壊れないように……


 そっと支えてくれたの」




ナオを見つめると、ナオは静かに涙を流していた。



★★★



香織が震える声で言葉を紡ぐたび、


胸の奥がぎゅっと締めつけられた。




「……わたしが押しつぶされそうになった時……


 手を差し伸べてくれたのが……彼だったの」




その言葉を聞いた瞬間、


ぼくの胸の奥に、


熱いものがじわっと広がった。




(……そうだったんだ)




ぼくは静かに涙がこぼれているのに気づいた。


自分でも驚くほど、自然に。




アイツはぼくを見て、その涙にさらに目を揺らした。




でも、ぼくは首を横に振った。




「……違うんだ、香織。


 泣いてるのは……悲しいからじゃない」




声が震えた。




「ぼく……初めて聞いたんだよ。


 あの日、香織も……


 ぼくを見つけてくれてたって」




胸の奥が熱くて、


言葉を絞り出すように続けた。




「だから……


 あの日からずっと……


 雑踏の中で香織を探してたぼく自身が、


‥‥報われた気がしたんだ。」




香織の目が大きく揺れた。




ぼくの涙がまたひとつ落ちた。




香織が息を呑む。




「ぼくは……


 香織が彼に救われたこと、ちゃんと分かるよ。


 だって……その時の香織は、


 ひとりで全部抱えて、


 壊れてしまいそうだったって、今のぼくにも分かるから。」




ぼくは静かに微笑んだ。




「だから……


 彼が香織を支えてくれたこと、


 ぼくは感謝してる」




「きっと、彼がいなかったら、今の君はいないと思う。その感謝をぼくも伝えたいんだ。」




香織の目から、涙がひと粒こぼれた。




「その感謝をぼくも伝えたいんだ。」



☆☆☆



ナオがそう言った瞬間、胸の奥が熱くなった。




(……尚文……)




ナオの言葉は、


まっすぐで、優しくて、


私の過去も、痛みも、全部そのまま受け止めようとしてくれていた。




私は、大学時代の夫を思い出した。




忙しくて、


眠れなくて、


心がすさんでいって、


必死で前だけを見ていたあの頃。




(……あの時の私は……弱かった)




そんな私の心に、


そっと寄り添ってくれたのが夫だった。




無理に励まさず、


無理に笑わせようともせず、


ただ、私が壊れないように支えてくれた。




(……あの人がいなかったら……


 私はきっと、途中で折れてた)




ナオは、そんな彼の存在を否定しない。


嫉妬もしない。


責めもしない。




ただ、


“ありがとう”と伝えたいと言ってくれた。




その誠実さが、胸に刺さった。




(……ナオは……


 私の全部を見ようとしてくれてる)




涙がまたこぼれそうになった。




私は、そっと息を吸った。




(……私も……


 今の私をちゃんと伝えなきゃ)




ナオの想いに甘えるだけじゃなくて、


ナオの優しさに寄りかかるだけじゃなくて、


逃げずに、


誤魔化さずに、


ちゃんと“今の私”を言葉にしなきゃいけない。




ナオが、


私の過去も痛みも全部受け止めようとしてくれているなら――




私も、彼と尚文に向き合わなきゃ。




胸の奥で、静かに、でも確かにそう思った。

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