近付く距離
家に帰って、玄関の灯りをつけた瞬間、今日の光景が胸の奥にふっと戻ってきた。
ソファに腰を下ろすと、深く息を吐いた。
アイツが話してくれた“全部”。
夫のこと。
病気のこと。
最後の日のこと。
事実としては知っていた。
でも――
アイツがどんな気持ちでその時間を過ごしてきたのかは、今日初めて知った。
泣きながら話す香織の声が、ずっと耳に残っている。
(……こんなに抱えてたんだな)
胸の奥がじんわり熱くなる。
ぼくはただ隣に座って聞いていただけなのに、
本当は、触れて欲しくない事なのに。
それでも、話してくれた。
(……頼ってくれたんだ)
その事実が、静かに胸に響いた。
“支えになりたい”
その言葉が自然に浮かんだ。
でも、
それを声に出すつもりはない。
押しつける気持ちでもない。
ただ――
アイツがしんどい時、そばにいられる人でいたい。
それだけだった。
愛華ちゃんを抱いた時の軽さ。
アイツの震えた声。
あの、泣きながら話してくれた“全部”。
全部が胸に残っている。
スマホを手に取る。
アイツの番号が画面に残っている。
連絡をするつもりはない。
きっと、今頃は疲れて寝ているだろう。
でも――
画面に表示された名前を見るだけで、胸の奥が少し温かくなった。
(……アイツと愛華ちゃんに寄り添ってあげたい)
その気持ちは、今日、確かに形になった。
静かな部屋で、
アイツの涙の余韻だけが
ゆっくりと広がっていった。
☆☆☆
愛華の熱はすっかり下がって、3日振りに保育園へ。
私は、病院から「たまにはゆっくり休め」と言われ、お休みになった。
久しぶりに外の空気を吸いたくて、近所のスーパーへ買い物に出た。
店を出た瞬間、視界の端に見覚えのある姿が映った。
「……ナオ?」
彼が振り返る。
驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑った。
「香織!?よかった……元気そうだ」
その一言だけで、胸の奥がふっと温かくなる。
愛華の話をしようと思った、その時
「愛華ちゃんは大丈夫?熱は下がった?ご飯食べれてる?」
普段、物静かであまり話さないナオが矢継ぎ早に話す。
そのギャップが面白くて、私は思わず笑ってしまった。
「愛華、もう大丈夫やけん。本当に……あの日はありがとね」
ナオは、私が笑っている理由が分からずに、
「ん?」という顔をしながら言った。
「気にしないで。元気になったのなら、それで十分だよ」
ナオはいつも通り、
押しつけがましくない。
でも、その優しさが胸に沁みる。
少し沈黙が落ちたあと、
ナオが少しだけ視線をそらして言った。
「……あのさ。電話は……その……緊急の時に使っただけだろ?普段は……LINEの方が、連絡しやすいよな」
普段は…という言葉に一瞬、心臓が跳ねた。
(……そうだよね。電話って、なんか……距離が近すぎるし)
「うん。そうだね。LINEの方が……気軽だし」
自然にスマホを取り出して、私達はQRコードを読み合った。
画面に“ナオ”の名前が登録された瞬間、胸の奥が温かくなった。
「また……何かあったら言って」
「うん。本当にありがとう」
短い会話だった。
でも、
その短さが心地よかった。
二人の距離が、ほんの少しだけ近づいた。
でもその“少し”が、
とても大きかった。




