あの日の番号
「香織先生!重症の搬送、あと5分で来ます!」
(……嘘……今……?)
外来は混雑。
急患は重症。
代われる医師はいない。
(……どうしよう……愛華……)
手が震えた。
誰も――
頼れない。
胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
(……どうしよう……本当に……どうしよう……)
その時、
ふと頭に浮かんだのは――
ナオ。
あの日、偶然知ってしまった電話番号。
ずっと使わなかった番号。
ずっと使えなかった番号。
……ずっと消せずにいた番号。
でも今だけは――
今だけは……。
(……迷惑かもしれない……でも……愛華が……)
震える指でスマホを取り出す。
画面に表示された
“ナオ”の文字。
(……お願い……どうか……出て……)
私は、意を決して、発信ボタンを押した。
☆☆☆
その日の夕方。
ぼくは珍しく早く仕事を切り上げ、自宅近くのスーパーで買い物をしていた。
冷蔵ケースの前で、「今日は何を作るか」なんて考えていた時だった。
ポケットのスマホが震えた。
画面を見た瞬間、心臓が一拍止まった。
“香織先生”
(……嘘だろ……)
あの日、ふいに知ってしまった番号。
使う理由も、使う資格もないと思っていた。
でも――
消せなかった。
何度も消そうとして、
結局できなかった番号。
(……なんで……今……?)
胸の奥がざわつく。
でも、着信音は容赦なく鳴り続ける。
ぼくは、
深く息を吸い、
震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
返ってきたのは、聞き覚えのある声――
でも、いつもの落ち着いた声じゃなかった。
「ナオ……っ……ごめん……っ……今……どうしても……」
声が震えている。
息が乱れている。
泣きそうな声。
ぼくの胸が一気に締めつけられた。
「香織、落ち着いて。ゆっくりでいい。何があった?」
少し間があって、途切れ途切れの声が返ってくる。
「愛華‥‥娘が‥‥
保育園で……熱が出て……
ぐったりしてて……
迎えに行かなきゃいけないのに……
急患が入って……帰れなくて……
両親もいなくて……
どうしたらいいか……わからなくて……」
ぼくは、その場で買い物カゴを棚に置いた。
(……そうか……こんな時に……)
「香織」
声のトーンを落とし、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「大丈夫。ぼくが行く。保育園、教えて」
電話の向こうで、小さく息を呑む音がした。
「……いいの……?迷惑じゃ……」
「迷惑なわけないだろ。今は愛華ちゃんが最優先だ。まずは保育園の場所を教えて。それと保育園にオレが迎えに行く事を伝えて欲しい。」
「後は、かかりつけの病院はある?香織の病院で良い?」
その言葉に、アイツは堪えきれずに泣き出した。
「‥‥あり‥‥がとう。保育園には伝えておく。場所は‥‥」
「‥‥分かった。その保育園ならここから近いから大丈夫。とりあえず、愛華ちゃんをお迎えに行ったら、香織の病院に行くな。」
そう言って、電話を切った。
ぼくは、アイツの涙の意味を理解しながら、スマホを握りしめた。
保育園に着くと、先生が不安そうに待っていた。
「愛華ちゃんのお迎えですか?」
「はい。お母さんの代わりに来ました」
先程、お母さんから連絡ありました。と案内された部屋の奥。
小さな布団の上で、愛華ちゃんがぐったりと横になっていた。
顔が赤い。
呼吸が浅い。
小さな手が汗ばんでいる。
ぼくは膝をつき、そっと声をかけた。
「……愛華ちゃん」
まぶたがゆっくり開き、ぼんやりとした目がぼくを見た。
「……パパ……?」
弱々しい声。
ぼくは、
胸が締めつけられるのを感じながら、優しく微笑んだ。
「ぼくは、ママのお友達なんだ。ママはね、お仕事でどうしても離れられないんだって。だから、ぼくが迎えに来たよ。一緒にママの所に行こう」
愛華ちゃんは、小さく頷いた。
その仕草があまりにも健気で、ぼくはそっと彼女の髪を撫でた。
「大丈夫。今からママのところに行こうな」
愛華ちゃんは、弱い声で「うん……」と言った。
ぼくは小さな彼女を抱き上げた。
小さな体は熱く、軽く、
そして――
守らなきゃいけないと思った。
(……香織……こんな小さな子を一人で……ずっと守ってきたのか……)
胸の奥がじんと熱くなった
☆☆☆
急患が到着し、私は無我夢中で処置にあたった。
意識レベル、バイタル、採血、点滴、画像、指示。
頭の中がフル回転する。
(……今は……この患者さんを……)
愛華のことが胸を締めつけるように不安でも、医師として目の前の命を優先するしかなかった。
処置が終わり、
患者が安定した頃――
院内PHSが鳴った。
「香織先生、コンサルの北村さんが娘さんを連れて来られています」
胸が一気に熱くなった。
(……ナオ……来てくれたんだ……)
私は白衣の裾を握りしめ、急いで外来の待合へ向かった。
待合のソファの前で、ナオが立っていた。
その腕の中には、ぐったりとした愛華。
「……愛華……!」
私は駆け寄り、ナオがそっと愛華を私の腕に渡した。
「熱が高い。でも意識はある。呼吸も安定してる。でも、すぐ診てもらった方がいい」
ナオの声は落ち着いていて、でもどこか優しかった。
私は愛華を抱きしめ、震える声で言った。
「……ありがとう……本当に……ありがとう……」
ナオは首を振った。
「気にするな。お前が困ってる時に、俺が動かない理由なんてないだろ?」
その言葉は、あのナレーションの本番前に私に言ってくれた言葉と重なって、胸がじんと熱くなった。
小児科の医師に診てもらい、
検査の結果――
「風邪ですね。熱が高いのでしんどいだけです。お薬出しますから、今日はゆっくり休ませてあげてください」
その瞬間、膝から力が抜けそうになった。
(……よかった……本当に……よかった……)




