里帰り
季節が四度変わり、夫が亡くなってから一年が経った。
一年という時間は、
悲しみを癒すには短すぎて、
現実を受け入れるには長すぎる。
私は、毎朝の支度の中でふと夫の癖を思い出し、
夜、愛華を寝かしつけた後の静けさの中で、
夫の不在を痛いほど感じてきた。
写真立ての中の夫は、いつも優しく笑っている。
その笑顔を見るたびに、胸の奥の空洞が静かに疼いた。
(……あなた……私は、ちゃんと前に進めているのかな……)
一年経っても、答えはまだ見つからない。
左手の指輪をふと触ってみた。
そしてついに、夫の地元にある家族墓へ遺骨を納める日となった。
朝の空気は澄んでいて、
風はやわらかく、
まるで夫が「大丈夫だよ」と背中を押してくれているようだった。
私は、遺骨を胸に抱き、愛華と両親と共に私と彼が大学時代の6年を過ごした土地へ向かう為に、新幹線に乗った。
新幹線がゆっくりと動き出し、ホームが後ろへ流れていく。
私は骨壺の入ったケースを膝の上に置き、両手でそっと包み込んだ。
(……あなた……また、あの街に帰るんだね……)
窓の外には、
見慣れたはずの景色が、
今日はどこか遠く感じられた。
隣では、私の母が静かにハンカチを握りしめ、
父は無言で窓の外を見つめている。
愛華は私の肩にもたれ、
小さく寝息を立てていた。
車内は静かで、ただレールの音だけが一定のリズムで響いている。
そのリズムに揺られているうちに、
ふと――
胸の奥に、懐かしい記憶が浮かんできた。
それは、大学を卒業して、研修医になる直前の春だった。
「そろそろ……うち、来てみる?」
彼が少し照れたように言った。
その言葉を聞いた瞬間、胸がドキッと跳ねた。
(……ついに……彼の“家族”に会うんだ……)
緊張で手汗が止まらず、
駅に着くまで何度もハンカチで手を拭いた。
彼の地元の駅は、都会とは違う、ゆったりとした空気が流れていて、
改札を出た瞬間、どこか懐かしい匂いがした。
「こっち」
彼が自然に私の手を取った。
その温かさに、胸がきゅっとなった。
彼の家に着くと、彼のお義母さんが明るい笑顔で迎えてくれた。
「まあ、香織さん!よく来てくれたわね」
お義父さんは、
少し照れたように、
でも優しい目で私を見てくれた。
夕食は、義母の手料理がテーブルいっぱいに並んでいた。
「この子、好き嫌い多いでしょ?苦労してない?」
そう言って笑う義母に、彼が「やめてよ」と顔を赤くした。
その光景が、
あまりにも温かくて、
私は胸がいっぱいになった。
帰り際、義母がそっと私の手を握った。
「この子をよろしくね。あの子、あなたといると本当にいい顔するのよ」
その言葉が嬉しくて、
帰りの電車の中で、
私はずっと彼の肩にもたれていた。
(……あの日から、私はずっとあなたと生きていくんだと思ってた……)
新幹線の揺れが、ふっと現実へ引き戻した。
膝の上の骨壺の重さが、胸にずしりと響く。
(……あなた……あなたの地元に、戻るよ……)
喉の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
愛華が寝返りを打ち、私の腕に小さな手を伸ばしてきた。
その温もりに、
私はそっと目を閉じた。
———
墓前に立った瞬間、
胸の奥に張りつめていた何かが、音もなくほどけていった。
石の冷たさ。
風の匂い。
遠くで聞こえる鳥の声。
全部が、夫の不在を静かに告げていた。
私は骨壺をそっと置き、両手を合わせた。
目を閉じると、
夫との日々が、
ひとつひとつ、
まるでフィルムを巻き戻すように蘇ってくる。
朝、眠そうに髪をかき上げながら「おはよう」と笑った顔。
研修医時代、
夜勤明けの私にコンビニのコーヒーを差し出して
「ほら、甘いやつ。疲れてるでしょ」
と照れくさそうに言った声。
結婚式の前夜、
緊張して眠れない私の手を握って
「大丈夫。俺がいるから」
と囁いた温もり。
愛華が生まれた日のこと。
小さな体を抱き上げて、
涙をこぼしながら
「ありがとう……ありがとう……」
と何度も言っていた夫の震える肩。
そして――
最後に病室で見た、
穏やかな寝顔。
全部が、
胸の奥で静かに光っていた。
(……あなた……本当に……いないんだね……)
涙が頬を伝い、落ちていく。
その涙は、
悲しみだけじゃなく、
愛と感謝と後悔と、
そして“もう触れられない現実”への痛みが混ざっていた。
隣で愛華が、小さな手をぎゅっと握りしめていた。
「……パパ、もう……かえってこないんだね」
その声は、
幼いのに、
あまりにも静かで、
あまりにも重かった。
私は愛華を抱き寄せ、震える声で答えた。
「……うん。
でもね、パパはずっと愛華のこと見てるよ。
ずっと、ずっとね」
愛華は小さく頷き、その目に涙を浮かべた。
子どもは、言葉よりも空気で理解する。
愛華は一年かけて、ゆっくりと悟ったのだ。
納骨が終わり、墓前に手を合わせたあと、
空を見上げると、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
風がそっと頬を撫でる。
(……あなた……見てる……?)
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
でもその温かさは、同時に切なさでもあった。
帰り際、義母が私の手をそっと握った。
その手は、
少し冷たくて、
でも確かに温もりがあった。
「香織さん……」
呼ばれただけで、胸がきゅっと締めつけられた。
義母は、涙をこらえるように微笑んだ。
「もう、亮介にとらわれることはないのよ。あなたは……十分すぎるほど頑張ったの。あの子も、きっとそう思ってる」
その声は、
優しくて、
温かくて、
でもどこか寂しげだった。
義父は、少し離れた場所で空を見上げていた。
ゆっくりとこちらに歩いてきて、静かに言った。
「香織さん。亮介の分まで、幸せになりなさい。あなたが笑ってくれることが……
あの子の一番の願いだったから」
その言葉は、胸の奥の“最後の蓋”に触れた。
私は堪えきれず、その場で泣き崩れた。
義母が背中を撫で、義父がそっと肩に手を置いた。
誰も何も言わなかった。
ただ、風の音だけが静かに流れていた。
(……幸せに……なっていい……?私が……?)
胸の奥が大きく揺れた。
夫を愛していた。
その夫を失った。
その夫の両親に背中を押された。
その“許し”が、私の心をさらに揺らした。
そして――
胸の奥に浮かんだのは、
あの会議室で思い出した気持ち。
(……あなた……私……どうしたらいいの……)
罪悪感と、
許しと、
心の揺れと、
希望と、
恐れが混ざり合い、
胸の奥で渦を巻く。




