休憩室での本音
外来の動線を一緒に見た翌週のことだった。
午前の外来がひと段落した頃、ぼくは休憩室の隅で資料を整理していた。
電子レンジの稼働音。
紙コップにコーヒーを注ぐ機械の低い唸り。
看護師たちの小さな笑い声。
誰かのスマホに届くLINEの通知音。
病院の休憩室特有の“疲れと日常が混ざった空気”が漂っていた。
その時、ドアが静かに開いた。
白衣の袖を少し捲り、髪を後ろでまとめ直しながら、アイツが入ってきた。
ぼくに気づくと、一瞬だけ動きが止まった。
でも、すぐに軽く会釈を返してくれた。
「……お疲れさまです」
『お疲れさまです』
以前より、その声は少しだけ自然だった。
アイツはコーヒーマシンの前に立ち、
紙コップをセットする。
ぼくは資料を閉じながら、そっと声をかけた。
「外来、今日も混んでましたね」
アイツはコーヒーが落ちる音を聞きながら、小さく息をついた。
「……はい。午前中は特に。検査の戻りが重なると、廊下がすぐ詰まってしまって」
その言い方は、
愚痴ではなく、
ただ事実を淡々と述べる医師の声だった。
でも、その奥にある疲れは隠しきれていなかった。
「この前見に行った時も、看護師さんたち、かなり大変そうでしたね」
ぼくがそう言うと、アイツは紙コップを両手で包みながら、少しだけ目を伏せた。
「……本当は、もっと余裕を持って動けるはずなんですけどね。人が足りないのと、患者さんが増えてるのと……色々重なってしまって」
その声は、責任感と無力感が混ざったような、静かな疲れの色をしていた。
ぼくは少しだけ言葉を選んでから、ゆっくりと伝えた。
「先生が気にしているところ、ちゃんと改善案に反映します。現場を見て、必要なところは一緒に変えていきましょう」
アイツは驚いたようにぼくを見た。
その目は、ほんの少しだけ揺れていた。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると……少し、楽になります」
その“少し”が、これまでの二人の距離を思えば大きな一歩だった。
アイツはコーヒーを持ったまま、休憩室の窓の外に視線を向けた。
「……最近、こうやって病院の人以外で誰かとちゃんと話をするの、久しぶりで」
その言葉は、
ぼくに向けたものなのか、
自分に言い聞かせているのか分からなかった。
でも、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
ぼくは、その熱さで自然に、仕事人としての自分ではなく、素の自分として言葉を口にした。
「あんま無理すんな。たまには肩張ってないで抜かなきゃ。倒れたら元も子もないから。」
アイツは驚いた表情で小さく頷いた。
「……うん。…ありがと。」
その声は、ドクターとしてのアイツの声じゃないように感じた。
外来の動線を確認するために、ぼくは午前のピーク時間に現場へ向かった。
廊下は相変わらず混雑していた。
その中で、アイツが患者の説明を終えて廊下に出てきた。
その瞬間、アイツの後ろから廊下を走行してきた車椅子の患者が、アイツの足元にぶつかりそうになった。
ぼくは反射的に手を伸ばした。
「危ない……!」
アイツの肘をそっと支える。
ほんの一瞬。触れたのは一秒にも満たない。
でも、アイツは驚いたようにぼくを見上げた。
「……ごめんなさい。ちょっと、周りが見えてなくて」
「いえ。ここ、動線が本当に危ないですね」
ぼくが冷静に返すと、アイツは胸に手を当てて小さく息をついた。
「……ありがとう。助かった」
その声は、
休憩室で聞いた声よりも、
少しだけ弱くて、
少しだけ素直だった。
そして、その一瞬の出来事が、ぼくの胸に静かに残った。




