↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
37/90

休憩室での本音

外来の動線を一緒に見た翌週のことだった。



午前の外来がひと段落した頃、ぼくは休憩室の隅で資料を整理していた。



電子レンジの稼働音。


紙コップにコーヒーを注ぐ機械の低い唸り。


看護師たちの小さな笑い声。


誰かのスマホに届くLINEの通知音。


病院の休憩室特有の“疲れと日常が混ざった空気”が漂っていた。




その時、ドアが静かに開いた。



白衣の袖を少し捲り、髪を後ろでまとめ直しながら、アイツが入ってきた。



ぼくに気づくと、一瞬だけ動きが止まった。



でも、すぐに軽く会釈を返してくれた。



「……お疲れさまです」



『お疲れさまです』



以前より、その声は少しだけ自然だった。



アイツはコーヒーマシンの前に立ち、


紙コップをセットする。




ぼくは資料を閉じながら、そっと声をかけた。



「外来、今日も混んでましたね」



アイツはコーヒーが落ちる音を聞きながら、小さく息をついた。



「……はい。午前中は特に。検査の戻りが重なると、廊下がすぐ詰まってしまって」



その言い方は、


愚痴ではなく、


ただ事実を淡々と述べる医師の声だった。



でも、その奥にある疲れは隠しきれていなかった。



「この前見に行った時も、看護師さんたち、かなり大変そうでしたね」




ぼくがそう言うと、アイツは紙コップを両手で包みながら、少しだけ目を伏せた。



「……本当は、もっと余裕を持って動けるはずなんですけどね。人が足りないのと、患者さんが増えてるのと……色々重なってしまって」



その声は、責任感と無力感が混ざったような、静かな疲れの色をしていた。



ぼくは少しだけ言葉を選んでから、ゆっくりと伝えた。



「先生が気にしているところ、ちゃんと改善案に反映します。現場を見て、必要なところは一緒に変えていきましょう」



アイツは驚いたようにぼくを見た。



その目は、ほんの少しだけ揺れていた。



「……ありがとうございます。そう言ってもらえると……少し、楽になります」



その“少し”が、これまでの二人の距離を思えば大きな一歩だった。



アイツはコーヒーを持ったまま、休憩室の窓の外に視線を向けた。



「……最近、こうやって病院の人以外で誰かとちゃんと話をするの、久しぶりで」



その言葉は、


ぼくに向けたものなのか、


自分に言い聞かせているのか分からなかった。




でも、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。



ぼくは、その熱さで自然に、仕事人としての自分ではなく、素の自分として言葉を口にした。



「あんま無理すんな。たまには肩張ってないで抜かなきゃ。倒れたら元も子もないから。」



アイツは驚いた表情で小さく頷いた。



「……うん。…ありがと。」



その声は、ドクターとしてのアイツの声じゃないように感じた。




外来の動線を確認するために、ぼくは午前のピーク時間に現場へ向かった。



廊下は相変わらず混雑していた。



その中で、アイツが患者の説明を終えて廊下に出てきた。



その瞬間、アイツの後ろから廊下を走行してきた車椅子の患者が、アイツの足元にぶつかりそうになった。



ぼくは反射的に手を伸ばした。



「危ない……!」



アイツの肘をそっと支える。



ほんの一瞬。触れたのは一秒にも満たない。



でも、アイツは驚いたようにぼくを見上げた。



「……ごめんなさい。ちょっと、周りが見えてなくて」



「いえ。ここ、動線が本当に危ないですね」



ぼくが冷静に返すと、アイツは胸に手を当てて小さく息をついた。



「……ありがとう。助かった」



その声は、


休憩室で聞いた声よりも、


少しだけ弱くて、


少しだけ素直だった。



そして、その一瞬の出来事が、ぼくの胸に静かに残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。