交わる距離
14年振りの再会から、半年が過ぎた。
病院へ来るたびに、廊下の向こうで白衣の彼女を見かけることはあった。
でも、交わすのは会釈だけ。
言葉を交わすことも、立ち止まることもなかった。
ぼくにとっても、
アイツにとっても、
“触れられない距離”がそこにあった。
そんなある日のことだった。
担当者から、新しいプロジェクトの話が降りてきた。
「診療部門の業務改善を本格的に進めたいんです。医師の働き方や動線の見直しも含めて、コンサルとして入っていただきたくて」
診療部門――
つまり、医師たちの領域。
ぼくは資料をめくりながら、淡々と説明を聞いていた。
だが、担当者の次の一言で、心臓がわずかに跳ねた。
「今回の改善チームには、松原先生にも入ってもらう予定です」
松原先生。
結婚して変わったアイツの名前。
一瞬、呼吸が止まった。
半年間、会釈しか交わしていない相手。
触れられない距離を保ってきた相手。
その彼女と――
仕事で、同じテーブルにつく。
逃げられない距離で。
ぼくは、胸の奥がざわつくのを感じながら、静かに頷いた。
「……分かりました。こちらで準備を進めます」
担当者は安心したように笑った。
「助かります。医師の意見をまとめるのは大変ですが……香織先生は信頼できますから。きっと力になってくれますよ」
ぼくは返事をしながら、心のどこかで覚悟を決めていた。
半年間、触れられなかった距離。
それが、
仕事という形で、
ゆっくりと、でも確実に縮まっていく。
★★★
会議室のドアを開けた瞬間、白衣の背中が目に入った。
アイツは、資料をめくりながら席に座っていた。
ぼくが入ってきたことに気づくと、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
「……お疲れさまです」
小さく、控えめな声。
半年ぶりに聞く“仕事としての声”だった。
ぼくも軽く会釈を返す。
「よろしくお願いします」
それだけ。
それ以上は踏み込まない。
踏み込めない。
会議は淡々と進んだ。
ぼくは説明をし、アイツは必要な部分だけ簡潔に答える。
互いに距離を測りながら、必要最低限の言葉だけが行き交う。
でも、半年間の“会釈だけの関係”とは違う。
同じテーブルに座り、
同じ資料を見て、
同じ課題に向き合っている。
その事実が、静かに、確実に、距離を変えていた。
☆☆☆
(……変わったな……)
会議中、ナオの説明を聞きながら、ふとそんなことを思った。
昔の記憶にあるナオは、
どこか不器用で、
でも一生懸命で、
まっすぐな人だった。
今のナオは、
その“まっすぐさ”を残したまま、
落ち着きと説得力を身につけていた。
現場の状況を丁寧に聞き取り、医師の負担を理解しようとし、看護師の動線まで考えている。
(……こんなふうに仕事するんだ……)
驚きと、
少しの安心と、
言葉にできない感情が胸に広がった。
でも、
視線が合うと、
どうしても少しだけ目をそらしてしまう。
彼を亡くして半年経っても、まだ心に残ったままの虚無感は無くならなかった。
☆☆☆
アイツは、必要な時だけ簡潔に意見を述べた。
無駄がなく、
冷静で、
患者のことを第一に考えている。
(……こんなに強くなってたんだ……)
ぼくの知らない14年が、アイツの背中に積み重なっていた。
でも、時々ふっと見せる疲れた表情が、胸に引っかかった。
責任の重さ。
母としての生活。
夫を失った痛み。
全部抱えたまま、
それでも前に進んでいる姿が、
ただただ眩しかった。
会議が終わり、資料を片付けていた時だった。
アイツが、少し迷うように声をかけてきた。
「……今日の説明、分かりやすかったです。ありがとうございます」
ぼくは一瞬だけ言葉を失った。
半年間、会釈しか交わしていない相手からの、初めての“仕事としての言葉”。
「……いえ。こちらこそ、助かりました」
それだけ。
本当に短い会話。
でも、その短い言葉の中に、半年分の距離が静かに溶けていく気配があった。
アイツは軽く会釈して、白衣の背中を揺らしながら部屋を出ていった。
ぼくは、その背中を見送りながら、
胸の奥で静かに、そして揺るぎない小さな灯りがともるのを感じていた。




