繋がる記憶
電話を切って、ふぅ、と小さく息を吐いた。
愛華の保育園からの電話。熱が上がったらしい。
仕事の調整。
母親への連絡。
頭の中は、いつもの“母としての段取り”でいっぱいだった。
(……大丈夫かな。帰ったらすぐ様子見ないと)
そう思いながら顔を上げた瞬間――
視線が、誰かと重なった。
一瞬、誰か分からなかった。
でも、
その人は立ち尽くしたまま、
まるで時間が止まったようにこちらを見ていた。
「……香織?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
懐かしい響き。
「……えっ……」
声が震えた。
「……ナオ……なの??」
言葉にした瞬間、
昔の記憶が一気に押し寄せた。
あのナレーションを作った視聴覚教室に差し込んだ外灯の光。
卒業式の日の光景。
バスターミナルで偶然再会したあの夏の日。
名前を見つけて喜んだあの夜。
駅で名前を呼ばれた表情。
そして、伝えられなかった想い。
全部が胸の奥でほどけていくようだった。
ナオは、驚きと戸惑いと、信じられないという表情をしていた。
「……久しぶり……だね」
やっとの思いで言葉を絞り出した。
ナオは小さく頷いた。
「……本当に……久しぶりだな」
その声を聞いた瞬間、
ふと、ある記憶がよぎった。
(……そういえば……)
愛華が生まれる少し前、彼が家で何気なく話してくれたことがあった。
『そういえば今日、病院にコンサルの人が来ててさ。感じの良い、爽やかな人だったよ』
その時は、ただの雑談だと思って聞き流していた。
でも今、
目の前にいるのは――
(……まさか……あの時の……)
胸の奥がざわついた。
私は、どう言葉を返せばいいのか分からなくなった。
夫の記憶と、
14年前の記憶が、
同じ場所で重なってしまったから。
☆☆☆
「……ナオ……なの??」
アイツの声が耳に届いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
(……本当に……?)
14年前の記憶が一気に蘇る。
でも、目の前にいる彼女は、
あの頃の少女ではなく、
白衣を着た“医師”で、
すっかり大人になったアイツだった。
混乱で頭が追いつかない。
その時、ふと視界の端に彼女の左手が入った。
薬指に、細いリングが光っていた。
(……結婚……してたんだ)
胸の奥が、締めつけられた。
その瞬間、数ヶ月前に担当者から聞いた言葉が頭の中で蘇った。
『以前挨拶された松原先生ですが……少し前に急逝されまして』
『奥さまも当院のドクターで……』
ぼくの背中に、冷たいものが走った。
(……まさか……)
目の前の彼女。
左手の指輪。
白衣。
子どもの話。
そして――
急逝した医師の“奥さん”。
全部が、一瞬で繋がった。
(……香織が……あの先生の……)
言葉にならなかった。
嬉しさと、
驚きと、
戸惑いと、
そして説明できない痛みが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざった。
アイツは、ぼくの表情の変化に気づいたのか、
少しだけ視線を落とした。
その仕草が、余計に胸に刺さった。
アイツは視線を落としたまま、小さく息を吸い込んだ。
ぼくは、胸の奥がまだざわついているのを感じながら、なんとか声を絞り出した。
「……あの、今……
オレ、ここの病院でコンサルの仕事してて……
今日はその打ち合わせで来てたんだ」
核心には触れなかった。
触れたら、何かが壊れてしまいそうで。
アイツは一瞬だけ顔を上げ、かすかに頷いた。
「……そうなんだ……」
その声は、懐かしいのに、どこか遠かった。
ぼくは続けた。
「まさか……ここで会うなんて思わなくて。本当に……驚いたよ」
アイツは小さく笑ったように見えた。
でも、その笑みはすぐに消えた。
ふと、彼女の視線が腕時計へ落ちる。
その仕草が、
ぼくの胸にまた小さな痛みを落とした。
「……ごめん。ちょっと、私……行かなきゃ」
その言葉は、
ぼくの混乱を見透かしたようでもあり、
自分の心を守るための距離のようでもあった。
白衣の袖が揺れ、アイツは軽く会釈して歩き出した。
ぼくは、
呼び止める言葉を探したけれど、
何も出てこなかった。
ただ、
彼女の背中が遠ざかっていくのを
立ち尽くしたまま見送るしかなかった。
胸の奥に残ったのは、
再会の温度と、
言葉にならない痛みと、
そして――
どうしようもない喪失感だった。




