戻らない日々
それでも――
祈りは届かなかった。
同僚たちの懸命な処置も空しく、
彼は静かに旅立った。
その瞬間、世界の音がすべて消えた。
朝、「頭痛いなぁ」と笑っていた人が、もうどこにもいない。
最後に交わした言葉は、
「大丈夫?無理しないでね」
それだけだった。
どうして、彼が?
どうして、気付けなかった?
医者なのに、どうして‥‥
どうして‥‥
どうして‥‥
涙が止まらなかった。
私は冷たくなっていく彼と一緒に葬儀会館へ向かった。
彼がいると、いつも賑やかな車の中は、横たわった彼を後ろに乗せ、静かに走った。
朝、「頭痛いなぁ」と笑っていた人が、こんなにも静かになってしまうなんて、
どうしても信じられなかった。
葬儀会館に着くと、
両親が保育園に迎えに行ってくれた愛華を抱きしめながら、
私に小さく頷いた。
私は膝をつき、愛華の目線に合わせた。
「ねぇ、愛華……パパね、遠くに行くことになったの」
愛華は首をかしげた。
「とおく?」
「うん……もう、会えないところ。
でもね、ずっと愛華のこと見ててくれるよ」
言いながら、声が震えて止まらなくなった。
愛華は状況を理解できないまま、ただ私の頬に触れた。
「まま、ないてるの?」
その小さな手が、余計に胸を締めつけた。
私は愛華を抱きしめた。
その日の午後、彼の両親が急いで到着した。
お義母さんの顔は涙でぐしゃぐしゃで、お義父さんは震える手で荷物を握りしめていた。
私はその姿を見た瞬間、堪えていたものが崩れた。
「ごめんなさい……
私……気付けなかった……
医者なのに……
本当にごめんなさい‥‥大事な息子さんを…」
言葉にならない言葉が、喉の奥から溢れた。
お義母さんは、私の肩を抱き寄せた。
「香織さん……
あなたのせいじゃないのよ」
お義父さんも、愛華をそっと抱き上げながら言った。
「息子はね……
あなたと出会えて、本当に幸せだった。
ずっと支えてくれて……
愛華を産んでくれて……
本当にありがとう」
責める言葉なんて、ひとつもなかった。
むしろ、感謝の言葉ばかりだった。
その優しさが、余計に苦しかった。
私はその場で泣き崩れた。
声にならない声で、何度も何度も謝りながら。
★★
葬儀が終わり、彼の遺骨と一緒に家に戻った瞬間、空気が変わった。
彼のご両親と相談し、しばらくは家で彼と過ごしてから、彼の地元にあるお墓に納骨する事にした。
玄関の灯りはいつも通りなのに、
靴箱の上に置かれた鍵皿も、
リビングのソファも、
キッチンのマグカップも、
全部が“彼のいない形”になっていた。
ただただ、静かだった。
テレビをつける気にもなれず、
部屋の明かりだけがやけに白く感じた。
(……帰ってこないんだ)
その事実だけが、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
翌朝、愛華が小さな足音でリビングに来た。
「まま、おきたよ~」
その声に、私は無理に笑顔を作った。
朝ごはんを作り、
保育園の準備をして、
洗濯機を回し、
掃除機をかける。
やることは山ほどあるのに、どれも“彼のいない形”で進んでいく。
食卓の椅子は一つ空いたまま。
洗濯物の量は半分になった。
歯ブラシは一本だけ残った。
生活は続く。
でも、
生活の形が変わってしまった。
夕方、保育園からお家に帰ってきた愛華が、リビングのソファに座りながら言った。
「まま……きょう、ぱぱかえってくる?」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「……そうだね。パパはね、もう帰ってこないんだよ」
愛華は少し考えるように首を傾けて、ぽつりと言った。
「じゃあ……ままが、ぱぱのぶんもぎゅーってして!」
(・・・寂しいよね。・・・寂しい。)
その瞬間、涙が溢れた。
私は愛華を抱きしめた。
小さな背中は温かくて、
その温度が余計に苦しかった。
(……守らなきゃ)
そう思った。
泣きながら、何度も何度も愛華を抱きしめた。




