変わらない朝
それは、本当にいつもと変わらない朝だった。
彼は寝癖を手で直しながら、こめかみを軽く押さえて言った。
「……なんか、頭痛いなぁ」
その言い方は、深刻さの欠片もない、いつもの調子だった。
「大丈夫?医者の不養生ってやつ~?無理しないでね」
「うん。風邪だろうから、病院着いたら薬もらうよ」
愛華の頭を撫で、「行ってきます」と笑って家を出た。
私はその日、休みだった。
愛華を保育園に送り届け、
帰ってきて洗濯機を回し、
掃除機をかけ、
キッチンの片づけをしていた。
本当に、ただの平凡な午前中だった。
スマートフォンが震えたのは、洗濯物を干そうとしていた時だった。
勤務先の病院だった。
(‥‥あれ?急患かな?)
そう思った。
「……はい、松原です」
電話の向こうの声は、落ち着いているのに、どこか急いでいた。
「亮介先生が職場で倒れられまして……現在、緊急処置を行っています。
香織先生、すぐに来ていただけますか?」
世界が一瞬で、
音を失った。
(……倒れた?
どういうこと?
さっきまで普通だったのに?)
理解が追いつかないまま、
私は急いでバッグを掴み、
玄関を飛び出した。
到着すると、処置室の前は異様な緊迫感に包まれていた。
扉の向こうからは、
機械のアラーム音、
誰かの指示の声、
足音、
金属の触れ合う音。
見慣れたはずの病院の音が、その日はまるで別の世界のもののように聞こえた。
同僚の医師が私に気づき、駆け寄ってきた。
「香織先生……今、彼の容態はこれです」
震える手で渡されたタブレットには、
MRIの画像が映っていた。
白く広がる出血。
押しつぶされる脳の構造。
見慣れたはずの画像が、
その日だけは理解したくなかった。
(脳動脈瘤破裂。思ったより出血が多い。現状は……とても厳しい)
同僚の医師が、同じ説明をしてくれる。
医師として、その言葉の意味は痛いほど分かっていた。
助からない。
意識は戻らない。
もう、彼は――。
でも、心が理解を拒んだ。
処置室の中で、同僚たちが必死に彼の命を支えていた。
モニターの波形は乱れ、アラームが鳴り続けている。
私は泣きながら叫んでいた。
「お願いします……
何とか彼を……
彼を助けてください……!」
医師としてではなく、
妻として。
担当医は、苦しそうに眉を寄せながら言った。
「出来うることは全てやります。必ず……やり切ります」
そう言って、再び処置室へ戻っていった。
私はただ、
震える手で胸元を押さえながら、
扉の向こうを見つめるしかなかった。
そして、祈ることしかできなかった。




