30歳の二人
それから月日はアッと言う間に流れていった。
陣痛が始まったのは、夜明け前の薄い光がカーテン越しに差し込む頃だった。
「……来たかも」
そう言うと、彼は驚いた顔をしながらも、すぐに落ち着いた声で支度を始めた。
病院に着くと、時間の感覚が曖昧になった。
痛みと、
呼吸と、
看護師さんの声と、
彼が握る手の温度だけが確かだった。
そして――
産声が上がった瞬間、
世界が一度だけ、
静かに震えたように感じた。
(……生まれたんだ)
涙が勝手にこぼれた。
彼も泣いていた。
その顔を見て、胸がいっぱいになった。
子供の名前は、華のように愛でる程可憐になりますように。という意味を込めて、
「愛華」にしよう。と彼と話して決めていた。
季節はまた巡り、
愛華はもう2歳になっていた。
よく笑い、
よく走り、
よく転び、
よく泣く。
家の中は、おもちゃと絵本と小さな笑顔で溢れていた。
朝は慌ただしく、
夜は寝るまで元気で、
休日は賑やかで、
毎日があっという間に過ぎていく。
仕事は続けていた。
時短勤務になったけれど、患者さんの顔を見ると、やっぱり医者で良かったと思えた。
亮介は相変わらず優しくて、忙しい中でも家事を手伝ってくれる。
「今日、保育園で砂遊びしたの?」
「外来で面白い患者さんがいてね」
そんな他愛もない会話が、毎日の中に自然に溶け込んでいた。
30歳になった実感は、特にない。
ただ――
今の生活が、静かに満ちている。
それだけだった。
☆☆☆
病院案件に入ってから数ヶ月。
順調に進んでいると思っていたプロジェクトは、思わないところで問題が発生した。
設備投資の予算が通らない。
現場の意見が割れている。
院長と事務長の方針が噛み合わない。
担当者から電話が入り、急遽、打ち合わせが設定された。
「一度、計画を見直したいんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
(……まぁ、こういうこともあるか)
驚きも、怒りも、焦りもなかった。
ただ、淡々と資料をまとめ直し、次の会議の準備をするだけだった。
結局、話し合いの結果――
プロジェクトは一時中断。
再開の時期は未定。
状況が整うまで待つしかない。
(……仕方ないな)
ぼくはそう呟いて、パソコンを閉じた。
仕事が終わる頃には、外はいつも暗くなっていた。
同僚から飲みに誘われることもあったが、ほとんど断っていた。
「最近どう?誰かいい人いないの?」
そんな軽い質問にも、ぼくは曖昧に笑って返すだけだった。
(……そんな余裕、ないな)
休日も結局は、仕事の資料を見たり、次の週の準備をしたりして終わっていく。
気づけば、
恋愛という言葉が
自分の生活から完全に消えていた。
誰かを好きになる感覚も、
誰かに会いたいと思う気持ちも、
どこか遠い世界の話のようだった。
(……まぁ、いいか)
そう思う癖が、いつの間にか染みついていた。
気付けば、支店の立ち上げから4年。ぼくは30歳になっていた。
特別な実感はない。
ただ、仕事が積み重なり、
責任が増え、
日々が淡々と過ぎていく。
季節の色は、相変わらずよく分からないままだった。
桜も、
夏の匂いも、
秋の風も、
冬の気配も。
気づけば通り過ぎていく。
(……今年も、早いな)
ぼくは夜の帰り道、白い息を吐きながらそう思った。




