歩み出す二人
春の午後。
実家の最寄りバス停に降り立つと、風が少しだけ暖かかった。
(……緊張してるのは、私じゃなくて彼の方だな)
横を見ると、彼はスーツの襟を何度も直していた。
「だ、大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。うちの両親、優しいから」
そう言いながら、私は彼の手をそっと握った。
その手は、少し汗ばんでいた。
(……可愛いな)
純粋にそう思った。
玄関の扉を開けると、母が笑顔で迎えてくれた。
「はじめまして。娘がお世話になっています」
父も、少し照れながら頭を下げた。
彼は緊張しながらも、丁寧に挨拶をしていた。
その姿を見て、私は胸が温かくなった。
(……結婚するんだな、私)
両親と彼が楽しそうに話しているのを見ながら、その実感が静かに胸に満ちていった。
私たちは一旦、取っているホテルに戻る事にした。
夕方と夜の境の時間。
薄暗くなって来た辺りは、春の風と共に私たちをどこか祝福してくれているみたいだった。
家を出て少し歩いたところで、彼がふいに立ち止まった。
「なぁ」
私が振り返ると、彼は少しだけ真剣な顔をしていた。
「俺さ……こっちに来ようと思う」
「え……?」
「お前の地元に。二人で医者として経験積んで、この街の人たちを笑顔にしたい」
私は言葉を失った。
「だってさ、お前の大事な場所なんだろ?だったら、俺もそこを大事にしたい」
春の風が、二人の間をそっと通り抜けた。
胸の奥が、一気に熱くなった。
(……なんでこんなに優しいんだろう)
目の前の彼の言葉が、
未来を照らしていた。
「……ありがとう」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「私……あなたと一緒に生きたい」
彼は照れくさそうに笑って、私の手を握り返した。
☆☆☆
地元に戻ってからの一年は、気づけば季節の色をほとんど見ないまま過ぎていった。
新しい支店の立ち上げは、想像していたよりもずっと大変だった。
朝は誰よりも早く出社し、夜は誰よりも遅く帰る。
会議、資料作成、営業、面談、調整。
気づけば、机の上には常に何かの締切が置かれていた。
(……今日もギリギリだな)
そんな独り言が、いつの間にか癖になっていた。
久しぶりに戻ってきた街なのに、懐かしさを感じる暇もなかった。
友達からの誘いは何度か来ていた。
「今度飲もうぜ」
「帰ってきたんだろ?顔見せろよ」
「忙しいだろうけど、落ち着いたらな」
その“落ち着いたら”が、
いつ来るのか分からなかった。
(……また今度な)
そう返事を返しながら、ぼくは次の資料に目を通した。
春に戻ってきて、
気づけば夏が終わり、
秋が深まり、
冬の匂いが街に混じり始めていた。
桜も、
蝉の声も、
紅葉も、
雪の気配も。
全部、気づけば通り過ぎていた。
(……一年、早いな)
ぼくは夜の帰り道、白い息を吐きながらそう思った。
支店は少しずつ形になってきた。
新人たちの顔つきも変わり、クライアントとの関係も安定してきた。
ぼく自身も、この生活に馴染んでいた。
(……来年は、もう少し余裕ができるといいな)
そんなことを思いながら、
ぼくは冬の空を見上げた。
星が、都会よりもずっとよく見えた。




