転機
社会人4年目の秋。
朝の空気は冷たく、会社のビルに入ると、
エレベーターの鏡に映る自分が少しだけ“頼れる大人”の顔になっていた。
(……仕事、慣れたな)
後輩も増えた。
任される案件も大きくなった。
クライアントから名前で呼ばれることも増えた。
忙しいけれど、その忙しさが心地よくなっていた。
ある日の帰り道。
オフィス街のビルのガラスに映る自分を見て、ふと思った。
(……最近、アイツのこと思い出してなかったな)
驚きはなかった。
悲しみもなかった。
ただ、
静かに、
淡く、
胸の奥で何かが消えていくのを感じた。
(……やっぱり、いい加減次へ進まなきゃな)
その気づきは、
痛みよりも、
少しだけ寂しさに近かった。
季節は冬になり、仕事帰りにふと立ち寄ったコンビニ。
温かい缶コーヒーを買って、
店を出た瞬間、
冷たい風が頬を撫でた。
(……元気にしてるかな)
その一言が、まだ胸の奥に残っていた。
影は薄れている。
でも、完全には消えていなかった。
(……もう会うこともないだろうけど)
そう思いながら、缶コーヒーを一口飲んだ。
苦味が、少しだけ優しく感じた。
翌週の朝。
部長に呼ばれた。
「ちょっといいか」
会議室に入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
「来春から、転勤だ。新しい拠点の立ち上げメンバーに選ばれた」
ぼくは紙を手に取った。
そこに書かれていた地名を見て、息が止まった。
(……地元)
胸の奥が、静かに揺れた。
懐かしさでもなく、
喜びでもなく、
不安でもなく。
ただ――
“時間が動き出す音”がした。
(……帰るのか、俺)
ぼくの中で薄れつつあった影が、
一瞬だけ、
かすかに揺れた。
☆☆☆
研修医の2年間は、想像していたよりもずっと厳しかった。
朝は6時前に病院へ行き、夜は日付が変わってから帰る日も多かった。
救急当直の日は、仮眠室の薄い布団で1〜2時間眠れればいい方だった。
(……しんどい)
そう思う暇もないほど、毎日が目の前の命との戦いだった。
泣きそうになる日もあった。
自分の無力さに押しつぶされそうな日もあった。
でも――
彼はいつもそばにいた。
「大丈夫。今日もよく頑張ったな」
自分も疲れているはずなのに、その一言で、どれだけ救われたか分からない。
冬の朝。
病院の屋上から見える空は、どこまでも白くて冷たかった。
(……もうすぐ終わるんだ)
長かったようで、あっという間だった。
彼も同じように空を見上げていた。
「なぁ」
「ん?」
「研修終わったらさ……
ちゃんと話したいことがある」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(……なんだろう)
でも、なんとなく分かっていた。
修了証を受け取った瞬間、肩の力が抜けた。
(……終わった)
6年間の医学部生活、
2年間の研修医生活。
長い長い道のりだった。
病院の外に出ると、夕方の光が優しく差し込んでいた。
彼が待っていた。
「お疲れ。本当に頑張ったな」
その声を聞いただけで、涙が出そうになった。
彼は、優しい表情でつづけた。
「なぁ」
彼は少しだけ深呼吸をした。
「俺と……
結婚してほしい」
夕方の光の中で、彼の声は震えていた。
「ずっと一緒にいたい。
これから先も、
お前と生きていきたい」
その言葉が胸に落ちた瞬間、
私は静かに笑った。
(……ああ、そうか)
ナオの影は、もう完全に消えていた。
ナレーション作りで残った視聴覚教室の暗さも、
卒業式で見た桜吹雪も、
バスターミナルで再会した夕焼けに染まる街並みも、
模擬試験のランキング表に載っていた、ナオの名前も、
駅で偶然会った、ナオの表情も。
全部、
静かに、
優しく、
遠くへ沈んでいった。
代わりに、目の前の彼の姿だけが、はっきりと残った。
「……はい。
よろしくお願いします」
その返事は、私の人生の“新しい始まり”だった。




