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忙殺の日々

解剖学の教室。

ホルマリンの匂いが鼻に刺さる。

白衣の袖口が少し湿っていて、その冷たさが妙に現実的だった。


教授の声が遠くに聞こえる。

黒板に書かれる神経の名前が、まるで別の言語みたいに見えた。


(……昨日のこと、まだ胸が痛い)


ナオの顔がふと浮かぶ。

駅のホーム。

驚いた目。

閉まるドア。


でも、次の瞬間には教授の声が飛んでくる。


「じゃあ、次の人。ここ、何の動脈?」


(……っ)


胸の奥のざわつきは、強制的に押し流されていった。


帰り道、夕焼けに染まる校舎を見上げる。


(……会いたかった)


そう思った。

でも、家に帰ればレポートが待っている。


机に向かうと、昨日の涙の跡が薄く残っていた。


(……忘れなきゃ)


そう呟いた時、ナオの影がほんの少しだけ薄くなった。


それからは、毎日が忙しい日々の連続だった。

街に出かける事も無くなり、アパートと大学と図書館の往復だけになった。


春。

図書館の窓の外では桜が散っている。

でも、私の視線は教科書のページから動かない。


(……あの時のナオ、どんな顔してたっけ)


思い出そうとすると、胸が少し痛む。


でも、隣の席の友達が言う。


「今日の小テスト、範囲広いらしいで」


(……やらなきゃ)



ナオの顔は、

桜の花びらみたいに、

視界の端でふわっと揺れて消えた。


夏。

汗ばむ白衣。

蒸し暑い実習室。

冷房の効いた教室との温度差で、体がだるい。


(……ナオ)


名前を思い出すたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


でも、その熱はすぐに冷めていく。


「次、心電図の読み方やるでー」


教授の声が響く。

ナオの影は、また少し薄くなった。


秋。

毎週のようにある小テスト。

ノートの端に書いた“ナオ”の名前が、いつの間にか消えていた。


冬。

手がかじかんで、

ノートの文字が震える。


(……駅の、あの時の顔……)


思い出そうとすると、ぼんやりとしか浮かばない。


忙しさが、

少しずつ、確実に、

ナオの輪郭を曖(・)昧(・)にしていった。



4年生になると、大学の空気が一気に変わった。


CBT。(※医学部4年生の終わり頃に受ける、全国共通の学力試験。これに合格しないと実習に行けない)

OSCE。(※医学部4年生が受ける、実技の試験。CBTと同じでこれに合格しないと実習に行けない)

実習前の最後の大きな壁。


図書館は席が埋まり、みんなの表情が険しくなる。


私も例外じゃなかった。


朝から晩まで問題集を解き、実技の練習をし、帰ってきてからも復習。


そんな日々の中で、同級生の彼はいつもそばにいた。


「今日もお疲れ。無理すんなよ」


その一言が、忙しさの中で唯一の“呼吸”になっていた。


(……ナオ)


ふと名前が浮かぶ。

でも、その顔がすぐに思い出せない。


(……あれ?)


胸の奥が少しだけざわつく。

でも、そのざわつきすら、すぐに忙しさに飲み込まれていく。


ナオが大学を卒業する頃――

私は、ナオの顔を“思(・)い(・)出(・)そ(・)う(・)と(・)し(・)な(・)い(・)自分”に気づいた。


(……前に進まなきゃ)


そう言い聞かせた時、ナオの影は、静かに、静かに薄れていった。



秋の夕方。

大学の廊下は、いつもより静かだった。


OSCEの練習用に並べられた小さな診察室。

白いカーテンが揺れて、蛍光灯の光が少しだけ冷たく見える。


(……もう無理かも)


アイツは、模擬患者役の前で声が震えた。


「今日は……どうされましたか」


採点者の視線が刺さる。

メモを取る音が耳に残る。

手が震えて、聴診器が胸にうまく当てられない。


「すみません……」


部屋を出た瞬間、膝が少し笑った。


(……しんどい)


廊下のベンチに座り込んだ。


その時だった。


「大丈夫か?」


同級生の彼が、そっとペットボトルの水を差し出してきた。


私は驚いて顔を上げた。


「手、震えてたでしょ?無理しすぎだって」


その声は、思った以上に優しかった。


私は、その優しさに触れた瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。


(……あ、呼吸できる)


忙しさでずっと張り詰めていた心が、少しだけほどけた。


「もしよかったら、俺、問診の練習付き合うよ。お前、説明は上手いし、絶対できるって」


その言葉が、思った以上に胸に沁みた。


(……ありがとう)


自然とそう言えた。


その瞬間、

ナオの影が、

少し薄くなった。


駅のホームの光景が、少し遠く感じた。


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