すれ違う二人
その目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
「えっ……?」
声には出ていない。
でも、確かにそう言った表情だった。
胸が跳ねた。
(……アイツだ)
ぼくは確信した。
彼女は、ぼくを見つめたまま固まっていた。
でも次の瞬間、まるで“確信が持てない”と言うように、
ゆっくりと視線をそらし、ぼくに背を向けた。
(……なんで背、向けるんだよ)
ぼくは気づけば走り出していた。
スーツケースを置きっぱなしにして、向かいのホームへ向かって全力で。
ホームのアナウンスが響く。
「まもなく発車します――」
(待ってくれ)
ぼくは走りながら、胸の奥から絞り出すように叫んだ。
「――香織!!」
その声が届いたのか、彼女は驚いたように振り返った。
目が合った。
間違いなく、アイツだった。
彼女は慌ててドアへ向かい、降りようと一歩踏み出した。
でも――
プシューッ
無情にもドアが閉まった。
「……っ!」
アイツの手が、
閉まったドアのガラスに触れた。
ぼくはホームの端まで走り、必死に手を伸ばした。
でも電車は、ゆっくりと、でも確実に動き出した。
アイツは、
閉まったドア越しにぼくを見つめていた。
驚きと、
戸惑いと、
信じられないという表情のまま。
電車は加速し、アイツの姿は遠ざかっていった。
ぼくはただ、その電車が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
胸の奥が、痛いほど熱かった。
(……会いたかった)
夏の夕方の光が、駅のホームに静かに落ちていた。
電車が見えなくなっても、ぼくはしばらくその場から動けなかった。
ホームの端に立ったまま、胸の奥がずっと熱くて、呼吸がうまくできなかった。
(……なんで、今なんだよ)
一年ぶりに見た横顔。
驚いた目。
背を向けた肩。
閉まるドアに伸ばした手。
全部が、胸の奥に焼き付いて離れなかった。
ぼくはゆっくりとスーツケースのところまで戻った。
手に取った時、指先が少し震えていた。
(……会いたかった)
その言葉が、何度も何度も胸の奥で反響する。
電車に乗り込んでも、窓の外の景色はほとんど目に入らなかった。
ただ、さっきの光景だけが頭の中で繰り返される。
アイツの驚いた顔。
ぼくを見つけて、
でも確信が持てなくて、
ゆっくりと背を向けたあの瞬間。
(……気づいてくれたんだよな)
そう思った途端、
胸の奥がじんわり熱くなった。
電車が揺れるたびに、
ぼくの心も揺れた。
(もう一回……会いたい)
その想いが、
ぼくの中で静かに、でも確かに形を持ち始めた。
大学に戻ってからも、
講義を受けていても、
バイトをしていても、
ふとした瞬間にあのホームの光景が蘇る。
(……どこにいるんだろう)
気づけば、
駅に行くたびに周りを見渡すようになっていた。
電車に乗るたびに、
向かいの車両を無意識に探していた。
(会えるわけないのに……)
そう思っても、
探してしまう。
あの日から、
ぼくの時間は少しだけ止まったままだった。
でも、
胸の奥の“会いたい”だけは、
ゆっくりと、確実に前へ進んでいた。
☆☆☆
久々に買い物に出ようと、いつもとは違う街まで買い物に出た帰りの電車。
発車までまだ少し時間がある。
吊り革を握りながら、ぼんやりと前を見ていた。
(……疲れたな)
実習、レポート、講義。
毎日が走り続けているみたいで、立ち止まる余裕なんてほとんどない。
だから、こうして電車の中でぼんやりする時間が、ほんの少しだけ心を落ち着かせてくれる。
はずだった。
ふと、
視線を上げた。
その瞬間――
胸が、ぎゅっと掴まれた。
向かいのホーム。
人混みの中に、
ひとりの男の子が立っていた。
(……え?)
目が合った。
いや、
“合った”というより、
“ぶつかった”に近かった。
心臓が跳ねた。
(……なんで?)
似ている。
あまりにも似ている。
でも、
そんなはずない。
ここは関西で、自分は医大のある街に住んでいて、
ナオは――
(……違うよね?)
そう思った瞬間、怖くなった。
確信が持てなかった。
もし違ったら、
もし見間違いだったら、
もし期待してしまったら――
私は、ゆっくりと視線をそらし、
その人に背を向けた。
背中が震えていた。
(……違うよね。違うはず……)
そう言い聞かせようとした。
でも、
胸の奥がざわざわして、
呼吸が浅くなっていく。
その時だった。
「――香織!!」
名前を呼ぶ声が、電車の中まで響いた。
全身がびくっと震えた。
振り返った。
そこにいたのは――
間違いなく、ナオだった。
(……なんで?)
驚きで足がすくんだ。
心臓が痛いほど脈打っている。
ナオが走ってくる。
必死の顔で。
息を切らしながら。
(……降りなきゃ)
気づけば、私はドアへ向かっていた。
一歩踏み出した瞬間――
プシューッ
ドアが閉まった。
「……っ!」
手がガラスに触れた。
でも、もう遅かった。
ナオが手を伸ばしている。
名前を呼んでいる。
でも声はもう聞こえない。
電車が動き出す。
ナオの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
私は、閉まったドア越しにただナオを見つめることしかできなかった。
驚きと、
戸惑いと、
信じられない気持ちと、
胸の奥の痛みが混ざって、
呼吸がうまくできなかった。
(……なんで今なの?)
電車は加速し、ナオの姿は完全に見えなくなった。
私は、吊り革を握ったまま、震える指を必死に隠した。
胸の奥が、痛いほど熱かった。
二年ぶりの顔。
少し大人になった表情。
でも、あの頃と同じ目。
(……会いたかったよ)
その言葉を認めた瞬間、涙が出そうになった。
でも、電車の中で泣くわけにはいかない。
必死にまばたきをして、
胸の奥の熱を押し込めた。
(違うよ……違う。今は……そんなこと考えてる場合じゃない)
そう言い聞かせても、胸のざわつきは消えなかった。
アパートに帰って、シャワーを浴びて、机に向かった。
開いたのは、解剖学のプリント。
その横には、生理学のレポート。
明日提出の課題。
(……やらなきゃ)
そう思ってペンを握る。
でも、文字が頭に入ってこない。
(なんで背を向けたんだろう)
あの瞬間の自分の行動が、何度も頭の中で再生される。
怖かった。
確信が持てなかった。
期待したくなかった。
(……もし違ったら、どうしようって思った)
でも、違わなかった。
ナオだった。
プリントの文字が滲む。
涙が一粒だけ落ちた。
すぐに拭った。
(泣いてる場合じゃない)
机の上の時計は、もう深夜を回っていた。
明日も講義がある。
実習の予習もある。
レポートも終わっていない。
ナオのことを考えていたら、前に進めなくなる。
(……忘れなきゃ)
そう呟いて、プリントを開き直した。
でも、胸の奥の熱だけは、
どうしても消えなかった。




