第9話 神が祈るから
ヒロが廃村を出たのは、夜が明ける前だった。
肩の火傷はまだ痛む。脇腹の傷も完全には塞がっていない。それでも、歩くことはできた。
ヴェラは黙って隣を歩いていた。
「ついてくるのか」
「魔王城への道を知っている」
「そうか」
ヴェラは、それ以上何も言わなかった。
二人は荒野を進んだ。
ヒロは、初めて魔王と戦ったときのことを思い返していた。黒い火球は、最初に小さな紋章を床へ描く。魔王が右手を上げてから炎が放たれるまでには、わずかな間がある。
黒い光の奔流は、直線にしか進まない。魔王自身が動かずに放つ攻撃ほど、威力が大きい。
ヴェラは魔王の癖や、城内の構造を説明した。魔王は強大な魔力を持つが、広い範囲を焼く攻撃には必ず予兆がある。逆に、近距離では魔力を鎧のようにまとい、聖剣であっても一度では貫けない。
ヒロは黙って聞いていた。
魔王城へ戻ると、門は開いていた。
城内の兵士たちは襲ってこなかった。魔王が、ヒロを玉座の間で待っているからだ。
「私も行く」
ヴェラが言った。
「ここから先は、あなた一人で行け」
ヒロは彼女を見た。
「そうか」
「勝てるのか?」
ヒロは魔王城の奥へ視線を向けた。
「行けば分かる」
ヒロは一人で歩き出した。
玉座の間では、魔王が玉座に座っていた。
「再び来たか」
「ああ」
「敗北を理解していないようだな」
「分かってる」
ヒロは聖剣を抜いた。
「俺が負けた」
魔王の目が細くなる。
「それでも、我に勝てると思うか?」
「思う」
魔王が手を上げた。
床に黒い紋章が浮かぶ。
ヒロは走った。
炎が放たれるより早く、紋章の中心へ踏み込む。聖剣を振り下ろすと、魔法陣が砕け、炎は生まれる前に消滅した。
魔王の表情がわずかに変わった。
ヒロはそのまま距離を詰める。
黒い魔力の壁が現れた。初戦と同じ防御だった。
ヒロは正面から斬らなかった。
壁へ刃を当てた瞬間、力を抜いて横へ流す。魔力の壁が受け止める方向を変え、ヒロの身体がその脇を抜けた。
魔王の肩へ、聖剣が触れる。
黒い鎧が裂け、血が流れた。
「小細工を」
魔王の拳がヒロの胸を打つ。
ヒロは吹き飛ばされたが、床へ倒れる前に柱を蹴って戻った。
魔王が放った黒い火球を、ヒロは一つずつ避ける。初戦のようにすべてを斬ろうとはしなかった。避けられるものは避け、斬るべきものだけを斬る。
戦いは長く続いた。
魔王の攻撃が玉座の間を削り、ヒロの傷口が再び開く。ヒロも何度も魔王へ斬り込んだが、決定的な一撃には届かなかった。
やがて、魔王が両手を広げた。
「これで終わりだ」
玉座の間全体に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
初戦で見た黒い奔流よりも大きい。逃げ場はない。
ヒロは魔法陣を見た。
床に刻まれた紋章。その中心には、魔王の足元から伸びた黒い線が集まっている。
ヒロは走った。
魔王ではなく、玉座へ向かう。
聖剣を振り下ろすと、玉座の背後に隠されていた黒い結晶が砕けた。
魔法陣の光が揺らぐ。
「何をした?」
ヴェラから聞いた話と、初戦で見た魔力の流れ。二つを重ねれば、魔王城そのものが魔力を供給していることは分かった。
ヒロは説明しなかった。
崩れた魔法陣の隙間を抜け、魔王の懐へ入る。
魔王の拳が迫る。ヒロはそれを紙一重でかわし、聖剣を両手で握った。
「神にでも祈ったか?」
魔王が言った。
ヒロは魔王の胸元へ刃を突き立てる。
「神に祈る趣味はねぇよ」
魔王の身体を、聖剣の光が貫いた。
ヒロは顔を上げた。
**「神が俺に祈るからな」**
魔王の口から、黒い血が流れた。
「戯言を……」
魔王は膝をつく。
やがて、その身体を包んでいた魔力が崩れ始めた。黒い炎が消え、玉座の間に静けさが戻ってくる。
ヒロは聖剣を引き抜いた。
魔王は倒れた。
ヒロはしばらくその姿を見下ろしていた。
それから、ヴェラの待つ入口へ歩き出した。




