第2話 王宮にて
神崎ヒロが次に立っていたのは、白い石で造られた巨大な広間だった。
天井は高く、壁には赤と金の旗が掛けられている。床の中央には、彼が先ほど渋谷で見たものとよく似た光の円が刻まれていた。ただし、こちらの魔法陣はすでに消えかけている。
周囲には大勢の人間がいた。
白いローブを着た老人たち。剣を帯びた騎士たち。豪華な衣装をまとった男女。そして、正面の高い場所に置かれた玉座には、白髪交じりの男が座っている。
ヒロはその場を見回した。
誰もが、彼を見ていた。
盛った髪。焼けた肌。細身のタンクトップ。いくつものネックレス。異世界の王宮という場所には、あまりにも場違いな格好だった。
魔法陣のそばにいた老人が、震える声で言った。
「成功……したのか?」
「召喚反応は一名です。間違いありません」
別の老人が答えた。
見慣れない顔が並んでいる。渋谷ではない。それだけは分かった。
「ここ、どこ?」
王宮の人々が、一瞬だけ黙った。
玉座の男が立ち上がる。
「私はこの国、アルヴェイン王国の国王だ」
ヒロは男を見た。
王は威厳のある人物だった。年齢は五十を越えているだろう。背筋は伸び、深い皺の刻まれた顔には疲労が浮かんでいる。それでも声はよく通った。
「突然この地へ呼び寄せたこと、まずは詫びよう。だが、我々には他に方法がなかった」
ヒロは黙って聞いていた。
王は魔王軍の侵攻について語った。
北方の国々はすでに滅び、国境に近い街はいくつも占領されている。魔王軍は数を増やしながら南下を続け、アルヴェイン王国の王都までもが脅かされていた。
王国軍は何度も迎撃した。しかし、魔族の将たちが率いる軍勢には歯が立たなかった。兵の数も、魔法の力も、すでに人間側を上回っている。
「古い記録に、異世界から勇者を呼び寄せる術が残されていた。魔王を討つ者を招くための召喚術だ」
王は玉座から降り、ヒロの前まで歩いてきた。
「どうか、この世界を救っていただきたい」
王が頭を下げる。
その動きに合わせるように、姫らしい少女も頭を下げた。淡い金色の髪が肩から滑り落ちる。彼女の表情には、王と同じ疲れがあった。
「父上……」
騎士たちは驚いた様子を見せたが、誰も止めなかった。
ヒロは王を見下ろした。
彼の服装を見れば、この世界で戦えるようには見えない。剣を持っているわけでもない。魔法を使える様子もない。
宮廷魔術師の一人が、言葉を選びながら口を開いた。
「召喚された者には、異世界の加護が与えられると伝えられております。しかし、確認には時間が必要です。まずは神殿で――」
「魔王はどこにいる?」
ヒロが尋ねた。
宮廷魔術師は口を閉じた。
王が答える。
「北の果て、魔王領の中心にある城だ」
「そうか」
ヒロは魔法陣の外へ歩き出した。
姫が顔を上げる。
「お待ちください。まさか、すぐに向かうおつもりですか?」
「ああ」
「魔王軍は十万を超えています。あなた一人で向かえば、命を落とします」
姫の声には、怯えよりも切実さがあった。見ず知らずの人間に頼るしかない状況が、彼女自身にも理解できているのだろう。
ヒロは広間の奥にある大扉を見た。
「兵をつけます。騎士団から精鋭を――」
「いらねぇ」
騎士団長が眉をひそめた。
「我々とて、あなたを無謀に死なせるつもりはない。魔王領への道は危険だ。せめて戦い方を学んでから――」
「分かった」
ヒロは騎士団長の言葉を遮ることなく聞き終え、それから短く答えた。
「じゃあ、行ってくるわ」
彼が大扉へ向かうと、姫がその背中に声をかけた。
「なぜですか?」
ヒロの足が止まる。
「なぜ、見ず知らずの世界のために、そこまでできるのですか?」
広間の全員が、ヒロを見ていた。
彼は少しだけ振り返った。
「世界を救う気なんてねぇよ」
姫の目が揺れる。
ヒロは続けた。
**「ただ、世界が俺を必要としてるだけだろ」**
言葉の意味を、姫はすぐには理解できなかった。
それは傲慢な宣言にも聞こえた。けれどヒロの顔に、誇示するような笑みはない。自分の存在について、ただ事実を述べているだけのようだった。
王は顔を上げた。
「……神殿へ案内させよう。そこには古い街道がある。魔王領へ向かうなら、まず西の森を抜ける必要がある」
「そうか」
ヒロは大扉の前に立った。
騎士が扉を開く。
王宮の外には、見たことのない街並みが広がっていた。石造りの建物、城壁、遠くにそびえる山々。そのさらに向こうには、黒い雲が空を覆っている。
魔王領の方角だと、誰かが説明した。
ヒロは一度だけ、遠くの雲を見た。
「行くわ」
誰も引き止めなかった。
王宮に召喚された異世界の青年は、剣も持たず、従者も連れず、ひとりで王都を出ていった。
その背中を見送りながら、姫はまだ、彼の言葉を考えていた。
世界が自分を必要としている。
そんな言葉を、あれほど自然に口にする人間を、彼女は知らなかった。
ヒロは振り返らない。
彼の前には、魔王のいる北の道が続いていた。




