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第六十六話

家族愛とか兄弟愛とか、全く分からない。家族も兄も僕の敵でしかなかったから、そういう子供向け映画を見ると文化の齟齬なのだけれど疎外感を感じざるを得ない。みかちゃんを見てもそうだ。みかちゃんは父親からは暴力や暴言を受けたのだろうが、父親が死んでからはみかちゃんは母親と妹と温かい家庭で暮らしている。僕には理解できない、その兄妹愛。大学生になって家を出ていった兄とはそれっきり音信不通。特に喧嘩することもなくて、話すこともなかった。僕が幼稚園児の時は一緒に遊んでくれたが、決して勝つことなく、邪魔って目線を送られ続けながら遊ぶのは苦痛だった。


「馨、久しぶり。元気してる?」


事の発端は兄が送ってきたこのショートメッセージだ。もう家族とは関わりたくないって思っているのに、今更何をしようというのか、それが怖かった。


「それなりに元気だよ」


即既読は付いたが、返信が中々来なかった。


「父さんが自殺したんだ。葬儀に出ないか?」


しばらくして送られてきたのはそれだった。アイツが、あのクズが自殺?何を気に病んで……。僕のことも母さんのことも苦しめて置いて、自分はとっとと天に召されてんのかよ。笑わせる。ずっと罪悪感に苛まれて生きてろよ。自己嫌悪で躊躇い傷増やしとけよ。


「出るわけないじゃん。あんな奴の葬儀なんて、お金と時間の無駄じゃない?」


「確かにお前が父さんを恨む理由は分かるけど、その言い方はないんじゃないか?」


「ごめん。だけど、とにかく出たくないし、会いたくもない。そっちで勝手にやっといて」


あのクズの死体を目の前にしたら、包丁でオーバーキルしたくなる。死体損壊罪で捕まる。でも、どうやって死んだんだろ。後悔があるとすれば、病んでる最中を嘲笑ってやりたかった。


「馨、どうかしたの?」


「ううん、別にどうってことないよ!」


って笑って、スマホを閉まった。人生で最も恨んでいる奴が死んだ。僕にとっては朗報なんだけど、僕の手で殺めて恨みつらみを怒鳴ってやりたかった。葬儀でコイツはああでこうでこんなクズだから流す涙がもったいないと水を差すのも亡状だ。さっさと忘れてやろうご愁傷様。



「馨、今日なんかやけに機嫌良いね」


「うん、とっても良いことがあったんだ」


「え、どんなこと?」


ここで父親が自殺したなんて間違っても言ったら、不謹慎だとみかちゃんは唇を歪めるだろうか。それとも、同じように父親を恨んでいた誼で、口角を上げてくれるだろうか。


「言いたくないよ。もう忘れたんだ」


「良いことなのに忘れちゃったの?」


「良いことだから忘れやすいんだよ。だけど良い感情だけはここに残ってるから、それで良いの」


お酒みたいに何もないけどお酒飲んでハイになっちゃって、でもその感情が好きだからまた杯が進むんだ。


「そうだね。何かさ、日々の良いことをノートに書いてみよう的な自己啓発本あるよね」


「あー、ああいうの嫌いだよ。だって、良いことない日は何も書けないじゃん。そしたら僕のノートはほぼ新品未使用のままだ」


それよりかは恨みつらみを何ページか書いてノートを引きちぎって捨てるって、書いてあった方がまだやりようがあると思う。


「俺も、馨とセックスした、しか書けなさそう」


「ふふっ、そのノートが埋まったら僕に頂戴ね!」


「嫌だよ、恥ずかしい。でも、この家の何処かにはあるね」


「え、みかちゃん本当に書いてるの?日々の良いこと」


と聞くと「うん」ってお酒のグラス片手にお酒では赤くならない頬を赤くしながら可愛く頷いた。


「日記みたいなのを、付けたいと思ってね。あー、やっぱ俺が死んだら一緒に焚べて欲しい、かも」


「ダメだよ、僕が死ぬまで何度も読み返して堪能するから」


「馨って、そういうとこ意地悪だよね♡」


「だって、僕に少なからずも恥を見て欲しいって気持ちがあるから言ったんでしょ?それだったら僕はちゃんと見るよ。意地悪?」


「ふふっ、めっちゃ意地悪♡」


って彼は言うけど、その表情は何処か嬉しそうだった。家宅捜索しないとだ。



手首を切った数日後、一対一で生徒からの質問を答えていると、生徒からこんなことを言われた。


「先生も色々と大変なんですね」


突然、そんなことを言われたから俺は、


「何?いきなり気を遣ってくれて……」


とよく分からなくてそのまま明るく解説を続けたのだが、家に帰ってよくよく考えてみると、この手首の傷跡、もうだいぶ薄くなってるのに、見えちゃったのかな。って見せてしまったことに罪悪感を覚えた。別にリスカしたから優しくして欲しいわけじゃない。そのために切ったんじゃない。俺はどうしても救われない感情をこの行為で救おうとしただけで、消えない傷なんてどうでも良くって気にも止めてなかった。その子は明るくて無邪気で、笑顔が素敵な子で、よく質問に来てくれる勉強熱心な子だ。そんな子に変な心配をかけてしまったことがその日の酒のアテとなった。

さらに傷跡が目立たなくなった今日、またその子から質問を受けた。先生こんにちは、なんて可愛らしい笑顔を向けてくれて、根っからの良い子だと思う。それゆえに俺がそんな子を汚したくない。


「まじで遺伝子の計算全くわかんないんですよ。授業もよく聞いてるんですけど、何故か追い付けなくて」


「ここは基礎知識と計算がまざってくるからね。まずヒトの染色体数は46本で……そこからヌクレオチド数が……」


と紙に簡易的に図で示しながら解説していって、ああだこうだ話し合って、論破しまくって、それで「それじゃあ」と生徒の方からこういうこと?って要約されたらインプット完了だと思う。


「やった、解けたぁ!!」


って生徒のその清々しい顔を見ると、俺はその横でしめしめとほくそ笑んでいる。教員って仕事が俺は、心底好きなんだろうな。生徒との出会い、成長、そして、別れ。そのサイクルの中で、悦に浸る。


「よく頑張ったね」


「先生ほどじゃないよ。先生の熱量に僕は引っ張られてるだけだから。僕が生物を頑張れているのは、塩先生のおかげ」


と俺に言い聞かせるようにしっとりと彼は言ってきた。言葉を選んで俺を元気付けようとしてくれている。


「ふふっ、お世辞でも嬉しいよ。でも、俺が依怙贔屓しないってのは知ってるね?」


「うん、そのために言ったんじゃないから」


彼は鞄に教材を乱雑に詰め込んで席を立ち、重たそうなリュックを背負った。そして、「じゃあ、またね!先生」って楽しそうなニコニコな笑顔で手を振ってきた。


「はい、また明日」


と俺は胸の前で小さく手を振る。彼が俺に対して背中を向けたところで、微かに胸騒ぎがした。これが好意だったら「どうしよう」と。

今まで生徒から好意を向けられる、あるいは告白されるはよくあった。その都度、私は誰とも恋愛はしない主義なんだ、と断りを入れた。その噂が広まって、そういうことは前よりも減ったが、それでも多感な時期というのもあり、一部の生徒からよく好かれて、また一部からはよく嫌われる。

馨以外には、滅多にこんな感情は抱かない。生徒には特に。なのに、その深入りしてこないその距離感に、「良いな」と好感を得てしまった。きっとこのまま生徒と教師として平行線を辿って終わるだろうに、こんなの感情と思考の無駄遣い。



葬式って、とても良い。その日だけは故人に思いを存分に馳せて、涙を存分に流していいのだから。なのに何故、僕はここで笑っているのだろうか。


「首吊り自殺か、あーはいはい。僕の首絞めたの、あの世でも忘れないでよね」


そんな思いを空を見上げ、いやいや、足元の石ころ蹴飛ばした。葬儀場の駐車場。良いもんを食わせてやる、の文言でここまで釣られてきた。会場内、ああ、あんな奴のために泣く人もいるんだと一驚して、そんな自分の歪みに泣きたくなった。アイツが好きだったもの、僕だけ不自然な笑顔の家族写真、まあどれもこれもよくやるよ。僕には全てがハリボテのように見えた。


「父さん、精神的に相当つらかったんだろうね」


と兄に言われたが、その原因になっているのが僕と母、九割強、僕のせいなので何も言えなかった。でも、そうでもしないと僕の方が死んでしまいそうで、一本のロープの両端に首を括られて吊るされている二人がいて、一人が地面に足を付けると、もう一人が宙に浮く。そんな関係性の中で、僕はずっとつま先立ちで、数秒吊られて弄ばれていたのに、僕は痺れを切らして、地を歩き出したから、父さんが死んだ。


「僕が殺したんだ」


一度、父さんを殺してしまったと恐れたあの日は、今日この日のための布石だった。僕がきっとみかちゃんに会っていなかったら、みかちゃんの恋人にならなければ、父親を殺そうなんてまず考えないだろうし、ずっとあの家でこき使われて死ねずに病んでただろうし、そしたら父さんも死ななかったのかな。それが良いか悪いかはちっとも分からないが、このお悔やみムードに押されて、罪悪感がふつふつと湧き出てくる。


「馨だけのせいじゃないわよ」


と母は言った。母さんのせいは一割弱あるって僕も分かっている。その罪滅ぼしに母さんは綺麗なお花をアイツのために餞として犠牲にするんだ。そのお金があればもっと美味しいものを食べられたのに。

棺桶に入った遺体は、白っぽいのと首の痕を除けば、ただ寝ているようにも見えて、恐ろしくなった。僕がこうやって覗き込んでいる背後で、アイツが僕のことを呪っている。今にも動いて僕の首を絞めて、道連れにする気かもしれない。ああ、身震い。

遺族の席でお辞儀にお辞儀を返して、あくびをこらえた。みかちゃんも親戚なら来てくれれば、あっ、表立った親戚じゃないんだった。顔の似ていない兄弟、僕のあまり黒くない制服と黒くてパリッとしたスーツ。涙目と笑顔。兄弟間の会話なんて、あってないようなものだった。


「父さんはさ、馨のことをとっても気にかけてくれてて、"愛情の裏返しで"厳しめに躾られてたんだよ」


「あっそ」


だからって、息子にあんなことしていい理由になるの?まあ、義理の息子だもんね。死んでもどおってことないか。血の繋がった実の息子とは違うから。


「だから……」


「じゃあさ、兄さんは父さんから愛されてなかった、ってことになるよ?」


「は?」


「だってその理屈が罷り通るなら、そうなんじゃん。兄さんはさ、父さんから甘やかされて育てられたもんね」


「お前のそーゆー屁理屈ばっかで、人を舐め腐ってる態度が父さんの気に触ったんだろうな」


「僕、兄さんのことは基本的に好きだよ。父さんの味方する時だけは嫌いだけど」


「何いきなり、気持ち悪い……」


ほらね、僕達は兄弟愛とは対極に位置している。僕が兄さんに対して、特段何か嫌がらせや嫌っている態度を見せたことなどは一切ない。ただ無言で部屋を共有して、各々が好き勝手に過ごしていた。それだけでこうもねじれているんだ。兄さんは僕に対して後ろめたさから遠慮してくる故に、僕に対して酷い猜疑心を持っている。兄さんってさ、僕のこと嫌いってわけじゃないけど、扱いにくい奴だからあまり関わりたくないって思ってるんでしょ?


「兄さんは間接的に虐待されてたことをはやく認めた方が良いよ。狂い始める前に」


「俺は狂いそうだったから逃げたんだよ。大学が理由じゃない」


そうやって足元を見て、過去の弱い自分を鑑みて、何が楽しいの?どーせなら笑えよ。


「そっか、へえ、そうなんだ。良かったね、逃げ場があって」


「恨んでるだろ?俺のこと」


「え?全然。寧ろさ、ストレスフルにさせてくれてありがとう、って死ぬほど思ってるよ」


「何で?」


「死ぬ前にさ、死にかけの天使に出会ったんだ」


と僕がみかちゃんのことを自慢しようとすると無視された。現実味のない夢物語を語る頭の狂った弟を見限ったんだ。僕は寿司を口いっぱいに頬張って、美味い美味いと杯を煽った。日本酒って、水と見間違えるためにあるんじゃないかな。クラクラして容器に陽気を空にした僕は立ちくらみの千鳥足で吐きそうだ。


「馨、大丈夫か?母さん、馨が水と間違えて酒飲んだ」


と兄に介抱される。顔真っ赤になっちゃって、僕が照れてるみたいじゃん。全部酒のせいなのに。


「みかちゃん、みかちゃん……どこ?」


馨、って僕の名前を呼んで、抱きしめて。僕と一緒に寝て、夢の国で遊んでいよう。ねえ、みかちゃん。楽しそうでしょ?つらいこと苦しいこと全部さ、全部、なくなっちゃえば良いんだよ。二人で手を繋いでさ、抱き合ってさ、顔を見つめて笑い合えればそれで十分なんだって。未来は僕を悲しませることばかりだから、今すぐにでも僕の死体に貴方のが重なってグルグル巻のミイラになっちゃいたいんだ。


「馨、目を覚ましなさい。それに、そんな奴の名前を呼ぶのはやめなさい。貴方、殺されかけたのよ?」


今更、バシンと激しく鳴った音は、母親からの平手打ちだった。僕はいつからか泣いている。「死んでやる」と誓うみたいに全身が重い。


「でも、ううっ、みかちゃんに、会いたい……」


「はあ、何度言い聞かせてもダメね。じゃあ、痛い目を見てきなさい。死んでから後悔しても知らないわよ」


「母さん、ありがとう」


母親に抱きつくなんて、酔ってなきゃできない。ましてや、兄の前で、父さんの葬式で。もはや不倫現場。


「完璧に酔ってるわね、酒臭い」


と母さんは僕を突き飛ばした。その場に置いていかれそうな僕の手を兄さんは取ってくれた。


「みかちゃんって、誰なの?」


「僕の恋人、とーっても可愛い♡♡」


「殺されかけたって、」


「ううん、寧ろその逆。命の恩人なんだよ」


僕は兄さんの手を借りて立ち上がると、足元がおぼつかなくって、僕と同じくらいの背の兄にもたれかかった。右手は繋いだまんま、僕を支えようとして添えられた左手。


「馨、その、レグカはまだしてんの?」


「ううん、もうやめたよ」


「そっか、傷付けられてない?」


「うーん、でも大丈夫だから、心配しないで」


と兄の腕の中から出て、笑顔を見せた。好きだからこそ、傷付けられるんだ。貴方みたいに見ないフリされればそりゃあ傷付きようがないよ。


「……頼れない兄で、ごめんな」


小学生の時も中学生の時も、意図的にお互いを避けてきた。だって僕の悩みを兄は共感できないし、兄は父親が絶対だって上手く立ち回ってたから。僕とは相容れようとしなかった。同じ部屋の二段ベッドで寝てたのに、僕は兄のことを全然知らない。でも僕が中学生の時に泣きながらレグカをしているところに丁度、兄が居合わせてしまったことがあって、その時ばかりは、「馨はそんなに悪くないよ」って優しく言ってくれた。たまに優しさを見せるこの人に、二度目の優しさを求めようとしたら痛い目を見る。それだけは幼い頃から知っている。


「ふふっ、とか言って、僕のこと実の弟だと思ったことないでしょ?僕は所詮『拾われもん』なんだもんね?」


「ああ、思い出した。やっぱ、お前といると虫唾が走るわ」


と僕を進行方向から退けるように力ずくで肩をグイッと。退かされた僕は千鳥足でテーブルに足を取られて、そのまま後ろに尻もちをついた。醤油皿、酒瓶、テーブルすらひっくり返って、僕の上へと雪崩落ちる。その惨状に足を止めた兄は僕を一瞥してから、申し訳なさそうな顔で下唇を噛み、また見て見ぬふりして歩き出した。


「ああ、最悪すぎ。……みかちゃん、助けてよ」


あの顔、あの性格、あの口調、アイツにそっくりじゃん。ほんの少しでも良い奴だと思っていた自分が馬鹿みたいだ。って、この有様を笑った。


「馨ったら、ああもう本当に、何してくれてんの?!さっさと立ちなさいよ!!」


と母さんがイラつきながらも来てくれた。もう死んでしまいたい。でもアイツの隣りで永眠するのは嫌だ。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


僕は根性で立ち上がって、さっきよりも酔いが回ってるみたいで、母親の肩を借りた。


「本当に、手がかかるんだから……」


と渋々、僕の手や胴体を掴んで、僕の身体を支えながら一緒に歩いてくれる。


「ふふっ、母さんは何だかんだ僕に優しいよね♡」


「全く、こういうときだけ調子良いこと言って」


というか、こういう時じゃないと媚び売っちゃいけない気がして。媚び売らなくても母さんは僕に良くしてくれるんだから、感謝の言葉くらい、こういう形でごめんだけど言わせてよ。


「どお?僕は、馨琉さんに似てる?」


母の顔を覗き込む。少し目を丸くして、嫌そうに目を逸らした母は


「お酒に弱くて泣き上戸なのは、彼に似てるかもね」


と息遣いとともに吐き出した。へえ、馨琉さんって案外、甘えん坊だったりして……?なんて思いながら、僕はお酒の力を借りて、みかちゃんに甘えていることを自覚して自戒する。



「お帰り、馨」


と少し浮き足立って玄関を開けたところで、平手を食らった。……え??


「馨の人生をめちゃくちゃにした、貴方をいつも恨んでいるのよ。己の責任も取れずにただ泣きじゃくるだけの、甘ったれた貴方を」


馨のお母さんは、俺の急所を的確に突いてきて、呑んでもないのに吐きそうだ。俺達の間で床にペタンと座って、泣きじゃくる馨は、「みかちゃんは悪くない」と俺の脚に縋り、盲信的でそれすらも嫌になってしまう。君のお母さんのが正しいよ。俺は君の人生をめちゃくちゃにして、その代償も負わずにさっさと死んでしまうのだから。


「それでも、もう、取り返しがつかないんですよ。これ。馨の理想が、これ、なんです。ね?」


とふざけた諦念から笑えてきて、馨を一瞥して問いかけると、馨は俺の腰まで這うように手繰り寄せて抱きついてきて、


「僕は、みかちゃんと生きられれば、それで良い」


なんて可愛いこと言うから、それだけで俺は、俺の責任とか将来とかどうでもいいやって、思考放棄してしまう。


「……気持ち悪い」


と馨のお母さんはそれを見て苦虫を噛み潰したようにそう言った。その言葉を耳にしてしまった俺は、馨をその言葉から庇うように室内へと引きずり込んだ。バタンとドアが閉まる。危うく、その綺麗な脚がちょん切れそうだ。大丈夫、ここだけは俺達のエデンの園。


「あああ、うううっ、みかちゃあん、か、母さんがあ、僕のこと、き、きぃ……」


「大丈夫、大丈夫だから。俺がそばにいるからね」


とその場限りの殺孤独剤。馨は見捨てられたくなくて、優等生をずっと演じてきて、弱い自分を殺して殺して抑え殺して、息が出来なくなっていた。恋人という枠組みを作って、恐る恐る自己開示を繰り返していって、弱い自分も他人に受け入れてもらえると気付けた第一歩。そんな俺が馨を裏切ってしまったら、そうなったら、死に地獄だ。


「母さんに、嫌われた」


そうやって馨が冷静さを取り戻して淡々と述べるのは、だから「みかちゃんは、嫌わないで」という意思表示だった。



「あのさ、お粥。世界一周旅行なんて興味ない?」


「え、めちゃくちゃ興味ないよぉ。今の俺が惹かれるのはぁ、華厳の滝くらい!」


とめちゃくちゃ興味ありげなトーンで興味ないと言われた。まあ、惹かれるものがあるならそれで。


「ふふっ、そうなんだ。じゃあ、一週間くらいで良いからさ、馨をどっか連れ回してくんない?」


「うわっ、何それ浮気ぃ??」


「んーーー、馨のこと襲わないでよ?」


「いやいやいやいやあ、俺はみーちゃんのこと言ってんの。馨くんを遠ざけるなんて、他に好きな子できたあ?」


と嬉しそうに聞いてそのニヤついた笑顔を絶やさない。だとしたらお粥はその共犯者であり、その実行役で、俺の好きな子ではなくなるよ。


「ふふっ、とにかく三月は予定空けといて♡」


と無意味な貯金崩して札束投げ捨てた。エビを鯛で釣り、エゴを抱いて売る。


「あははっ、何これ?精巧に造られた偽札??」


お粥はその札束から一枚抜き取ると、太陽光に透かして見て本物かどうか確かめてる。


「ううん、ちゃんと銀行から下ろしてきたよ」


「みーちゃんってさあ、たまーにバカだよねっ!」


満面の笑みで貶してくるってことは、破綻した。


「え?」


「だって、俺だよぉ?馨くんとの旅行デートなんて、お金貰わなくとも喜んで行くに決まってんじゃーん、馨くんは嫌がるだろうけどね。お金の無駄だよぉ?」


「だから嫌がる馨を、強制的に連れ出して連れ回してって、お願い。お金の分だけ責任が増すでしょ?」


「そんなんこのお金でみーちゃんがやんなよぉ。みーちゃんならさぁ、馨くんは嫌がらないだろうしぃ?ってか、責任とか言われても、俺、責任感ないし、そーゆーの大っ嫌いなんだよね。数ヶ月後の予定が埋まってんのでさえ、苦痛ぅ」


って愚痴を散々吐いた後で、この話をなくならせるために俺の胸ポケットの中に札束を終う。だけど塩は煮え切らなくて、その手を追いかけて、握った。


「お粥、ううん、麗さん、お願いします。馨のことを安心して任せられるのは貴方しかいないんです」


生まれて初めて、心の底から頭を下げた。


「……みーちゃん、どっか行っちゃうの?」

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