第四十六話
僕の脚や腹に付いた疵が醜くて嫌になる。前はあれほど愛おしく鏡に映るそれを見ていたのに、今となってはただみかちゃんを悲しませるだけの痕になってしまった。今の僕の精神状態はみかちゃんのおかげでかなり落ち着いていて、自傷行為をすることは無くなった。けれど、みかちゃんが自傷行為をしたときは、ここぞとばかりに馬鹿だと思った。そう罵りたかった。美しい貴方に傷が付く、そう思うだけで気が狂う。でも、可愛かった。愛おしく感じた。ただただ抱きしめてあげたくなった。貴方の弱さは僕が、なんて漫画の主人公気取りも良いところだけど。さて、この痕をどうするか。みかちゃんのはタトゥーでも彫れば、お洒落に隠せそうだけど、僕のは、気色悪い。今となっては、どんな心情でこの傷を付けたのかさえも覚えていない。何月何日かも忘れたし、ただ自室に籠って切って馬鹿みたいに泣いた記憶だけはある。つらさを和らげるため、いいや、自分を酔わせるために切った。みかちゃんも見慣れてくれてるんだけど、やっぱりちょっと悲しそうなんだ。悲しさと虚しさが傷口の溝に落ちてるみたい。
「みかちゃん、僕の傷跡なんだけどレーザー治療とかで綺麗になるかな?」
淹れたての珈琲とお菓子とでブレイクタイム。こういう日常のちょっとした贅沢をみかちゃんと味わうのがとっても幸せ。
「治したいの?」
「まあ、そりゃあ」
ブラックコーヒーを口に含んで、その苦さを飲み込んだ。
「俺は馨の傷跡、格好良くて好きだけど」
みかちゃんはひとくちチョコレートをつまんで、幸せそうに口の中に入れる。包み紙を綺麗に広げて重ねるのがみかちゃんのいつもの癖だ。
「ふふっ、何で止めちゃうの?治療費が高いから?」
「違う、本当に、馨の傷跡を見ると、この傷跡を増やさないようにって、ずっと馨の傍にいて支えてあげたいって、ちょっと思っちゃってるんだよね」
そう言ってから、チョコレートの甘さをコーヒーの苦さで中和させて、みかちゃんは若干、照れ気味に僕から目を逸らした。
「へえ、めちゃくちゃ可愛いじゃん!」
その回答に、惚気けるように、感情のままに、みかちゃんを可愛がる。みかちゃんのせいで僕に傷跡が増えたことは一度もないよ。複合的な原因だけれどもね。
「傲慢で、自意識過剰で、ごめんね」
「そんなことない、みかちゃんのその言葉で僕の悩みなんかふっ飛んじゃった。僕はみかちゃんが愛せる僕でいたいからさ」
なんて、綺麗な言葉を吐いたあと、数時間後にはレグカが頭ん中を過ぎる。最近、思うことと言えば、僕はストレス耐性に弱すぎることと、ストレスに対して過剰反応してしまうこと。自分の失敗、失態がとてつもなく許せない、自分を殺してしまいたくなる。ああ、貴方が愛してくれる僕でさえ僕は傷つけてしまいたくなる。完璧主義なんて褒められたもんじゃない、これは呪いだ。僕を殺すための呪い。勉強が思い通りに進まなくて、癇癪おこしてヒステリー引っさげて貴方を傷つけるような傷を刻みたくなる。ごめんごめんごめんなさい、こんなことしちゃダメだってわかってる。けどもう何ヶ月も我慢してきて、本当に僕は狂ってしまいそうだ。青あざ叩いて耐えてきたけど、そんなんじゃまったく物足りないんだ。僕には才能も頭脳も胎嚢もない。こんなんじゃダメだ、って自分殺しながら鼓舞してきたけど、拳で瘤つくっても壊れそうで怖いんだ。
「みかちゃんみかちゃんみかちゃんみかちゃん」
甘えて甘えて甘ったれて、目にも身にも余ることを数多するわけですが、貴方はそれをあまつさえ許してしまうので、気が緩んで、頬も、社会の窓でさえも緩んでしまう。
自己破壊の悦を得て、短期的にしか物事を見られない死を含んだ将来性に目を向ければ、まあ、死ぬからいいか、ってどんな自己破壊だろうと思えちゃうんだよ。この苦痛を刹那的に慰めることが僕には最高なんだ。
「馨」
「何?」
「煙草吸っていい?」
「どうぞ」
けれども僕はストレスに襲われて、貴方を支配的に襲うだけで、それに恐れを成す貴方は教わる生徒のようにただひたすらに受動的である。怯えて震えて嫌がる貴方の姿でさえも僕には惜しくて愛おしくて狂おしい。不整脈になる僕の心臓、死んだ自律神経、不愉快な体液。それでもそんな醜い見にくい僕を見つめて抱きしめて甘やかしてくれるのは、貴方だけ。甘ったるさと罪悪感で満たされた僕の心には、貴方の苦しそうな微笑みが何とも艶めかしく感じる。煙を吸う貴方が潰したその吸殻、それはまるで僕のようで、僕の終焉で、残り香を漂わせるように、貴方を酔わせるように、焼香して証拠にするんだろう。
「ごめんね、みかちゃん」
「何が?」
「傷跡増やしちゃった」
僕はパッチワーク人形。ベッドワーク兼業。ヘイトワーク専業。サッドシーク隠形。
「ううん、気にしないで」
「みかちゃんの心の傷も増やしたよね?」
「ふふっ、それも気にしないで良いよ」
僕が気にしているのが馬鹿らしいのか、貴方は楽しそうに笑った。僕の脳内の回転率が下がる。スローモーションになっていって、何もかもがぼんやりと白い濃霧に覆われる。
「そっか、僕は幸せ者だね」
ストレスの防衛機制で退行するのではなくて、脳みそが自傷行為によって、縮んで弱ってしまって、退行せざるおえない状況に陥った、という方が僕の場合は正しかった。僕は赤ちゃん、赤ちゃんみたいなことしか考えられない。だから、今の状況で発する言葉は赤ちゃんのように全て純粋な言葉だ。
「.........可愛い」
ベッドにまた入り込んで丸くなる貴方はそうやって呟いて、それを認識するのに時間がかかって、照れるタイミングも否定する脊髄反射も遅れてしまった。
「あっ、勉強しないとだ」
話をすりかえるように膝にかかった布団を剥いで、僕はベッドから降りようとする。
「無理にしなくてもいいんじゃない?」
「んー、勉強しないと自己嫌悪で余計に疲れちゃうからダメなんだよね」
結局、寝れない。疲れが取れない。勉強できない。の悪循環のループにどんどんとハマっていってしまう。ここで自分を殺してまで動かさないと、僕は本当に死んでしまう。
「そっか」
「それじゃあ、おやすみなさい」
目を閉じている貴方のおでこにキスをする。すると貴方が僕の首に手を回して、僕を離してくれない。寂しそうな顔でじっと見つめてくる。
「馨、嫌だ。行かないで」
「どうしたの?みかちゃん」
みかちゃんがこんな必死に甘えてくるなんて、珍しくて目を開いてしまうが、全部が愛らしくて、とても大好きだと思った。
「俺、今死ぬのがすごく怖い」
「……ふふっ、死なないでよ」
冗談にしたくて、少しだけ微笑んだ。貴方は真面目な顔をして、そんなことを口にするから、嫌だ。
「そうなんだけど、んー、最近、目を閉じると、死んじゃいそうで怖くなる」
僕から手を離して、そっぽ向いて丸くなって、何かに縋りたい気持ちのまま、貴方はずっと死を怯えているようだ。
「僕のせいだね、僕がまともじゃないから、置いて逝くのが怖いんだよね」
口ごもった、貴方を見て、自己嫌悪がまた爆発した。微笑みのポーカーフェイスも剥ぎ取って捨てた。
「じゃあ、死なないでよ。ずっとそばにいてよ。お願いだから、死ぬとかそんなこと言わないで。僕は貴方なしには生きられない、僕だって怖いんだよ、嫌なんだ」
「ごめんね、馨」
僕が吐き出すように、不満をぶつけて、それを残さず飲み込むように、貴方は謝った。
「……ごめん、僕のが悪い。ずっと我儘で子供なのは僕の方だよ。みかちゃんのが怖いに決まってんじゃん。あの日、僕が飛び降りようとしたとき、本当はさ、格好悪いんだけど、脚の震えが止まらなかったんだ。このままバランス崩して落っこちちゃうんじゃないかとか、アスファルトに当たったらすげえ痛そうだとか、死ぬためにやってんのに、そんなことばっか考えてた。だから正直に言うと、みかちゃんが僕の手を掴んでくれて、ホッとしたよ。一目惚れした」
貴方の手を握りしめて、過去の物語を僕のとっておきの思い出を子守唄のように聞かせた。
「ふふっ、ありがとう。いいお話だね」
「そうだよ、いいお話なんだ。紆余曲折があっても、最後には絶対にハッピーエンドなんだよ。この二人の物語は」
そう言い聞かせて、みかちゃんと笑い合う。その瞬間、二人の間に幸福が生まれた。
「馨、今日は特段にいい日だね」
みかちゃんは幸せのまま死にたいと願う人間だ。僕がみかちゃんを幸せにしないと、みかちゃんの最期の願いすらも、僕は叶えてあげられない不甲斐ないどうしようもない悔やんでも悔やみきれない人間になってしまう。それでみかちゃんは、寝る前に今日はどんな日だったか、ちゃんと後悔なく死ねるか、考えてしまうんだろう。僕との日常を噛み締めるように確かめて味わう。
「だからって、死んじゃダメですよ?」
「うん、俺はずっと馨のそばにいるよ。死んでもね、ずっと」
「だから、死んじゃダメだって〜。もっとみかちゃんとこうやって戯れ合ってたいの」
そうやってみかちゃんの身体に触りまくって、こしょばゆいとくねくねを身体を動かすみかちゃんを、僕は存分に可愛がる。
「ああ、馨といると幸せが尽きないなぁ」
思いっきり笑って、心からの言葉を、素敵な笑顔とともに、僕にくれる貴方は、僕にとっても、幸せの根源なんだろう。貴方のその笑顔を絶やすことなく守っていたい。
「はあああ、良作すぎて気持ち良いなぁ。創作は心の救済だよね、ほんと」
スマホでR-18漫画を読みながら、深いため息をついて、尊い尊いと悶えている。この美術教師は、仕事放棄なのか公私混同なのかよく分からなくなってくる。
「貴方が楽しそうで恨めしいですよ」
「羨ましいの間違いでしょ?読みたい?」
なんでわざわざ、わざわざ濡れ場を見せてくるの?嫌がらせ?もっと尊い、心動かされるようなシーンあったよね?ヌプッ……みたいな擬音、何処からきたの?まあ、眉尻下がってる受けの顔は好きだけど。
「……えっちぃ、ですね」
「あははっ、鹿じゃん」
僕が脳内煩くして、理性保とうとして、その画面を凝視していないのだけど、しているように見えるその行動が、車のヘッドライトで目が眩む鹿みたいだと馬鹿にされた。
「お粥さんって、やっぱセッ好きなの?」
「好きなわけないじゃーん、大っ嫌いだよ」
って大袈裟に否定する。苦しまぎれに。
「何で?」
「君は何で好きなの?それ教えてくれたら教えてあげる」
「僕は、ただひたすらに楽しいからでしょうね。理想的で陶酔的で、肉体的に繋がれるのが嬉しいんですよ。僕が不安定な存在だから、ですかね?」
「そうだね、すぐ死ぬじゃん、君」
「そうですよ、それで、お粥さんは?」
「俺はさぁ、なんっかぁ、相手に合わせて、メリットを提示してそれを続けないと、俺切られるんじゃないかって思って、その原因みたいなんがぁ、それで、嫌い」
思い悩むように頬杖つきながら、唇を尖らせて言われた。相手に合わせて、メリットって、この人からこんな台詞が出てくるとは思えなかったので驚いた。何だか前よりも大人びた雰囲気になっている気もする。
「酷い捨てられ方したの?」
「それしかされてないよ、可哀想でしょ?」
彼がそうゆう漫画を読むのも、そうゆうときの鉄仮面を作っているにすぎないと思えば、何だか、報われてないと思った。
「見る目ない人達ばかりなんですね。貴方を捨てるなんて」
「じゃあ、君は捨てないの?」
「だから、しょっちゅうここにいるんです、みかちゃんもそうですよ」
「へぇ、君は人の弱みにつけ込むのが上手いね。ほんと、騙されちゃいそう」
なんて無邪気っぽく笑う。その言葉だけは受け取っておく、なんて、僕の心は拒否られた。傷ついて、傷つかれて、疲れて、つらくなって、人との繋がりの欲を捨てたいけれど、まだ捨てきれてなくて、素敵に煌めいていている貴方は、詐欺師のシラサギ、夜の寒さに震えている。
「お粥さん、見てください」
僕は椅子に座っているお粥さんの目の前で、シャツをめくり、脇腹から腹にかけてできた縫合した傷跡を晒す。
「何?」
「自傷痕です」
「それがあ?」
「自傷行為って、何で隠すと思いますか?」
「知らなーい、やったことないしぃ、わかるわけないじゃん」
なんてどうでもいいという顔される。
「自慰行為と同類だからですよ、おなティッシュそこら辺に置いとくのと同じです」
「あははははっ、なにそれ!!!超、超超超ウケるんだけどぉ!!!」
バンバンも机叩いて、馬鹿笑いされた。さっきまでの無関心との緩急が激しい。それに、うるさいくらいハイテンションを出されて、引いたし、戸惑った。僕の場合はね、と付け足した。
「だから、みかちゃんにも言いにくいんですよ。コレコレこうゆうわけだから消したいって」
「君、欲求不満を拗らせすぎぃ」
「ふふっ、僕の弱みをまた見せちゃいましたね。これでもまだ信用できませんか?」
「あー、はいはい、君には恐れ入った、参ったよ、俺の負け、降参。俺さあ、恋人に振られたんだあ、配達員の子」
「動物に癒しを求めてた子ですか?」
「そおそお、今回ばかりは本物の恋愛かもしれないって思ったんだけどね。だってさあ、相手がいない間に相手のことずーっと考えるなんて、みーちゃん以外に俺いないよぉ?それに、かなりみーちゃんの埋め合わせだって、彼でできてたしぃ。あいつの好みも味も全部、把握してたはずなんだけどなあ」
俯きながらに愚痴って、僕の彼氏に恋してるのが原因じゃないかとも思うんだけど、それはそれでまた別問題っぽくて、核心に迫ってみた。
「原因は?」
「だから、その人間がする愚かな生殖行動だよ。俺のは、愛がないんだと。何が愛がないだ?意味わかんない。俺は愛してんのに、そっちが勝手に浮気して、勝手に罪悪感持って、一方的に振ってきたんじゃん!ああ、もう酒ないの?ここ」
何となくお粥さんの愛のないセッは想像するのが容易いけど、多分、浮気されても気にせずに許しちゃうのが、相手にとってはムカつくんだろうなあ。執着心や嫉妬心のなさ。けど、それだったらこんなに嘆くことなくて、お粥さんの今回ばかりは、という言葉は本物だとわかる。
「ありませんよ、まあ、そんなに愛してんなら復縁できると思いますけどね」
「何処があ?」
「え、その、研究したりしてるとこ?相手の好みに合わせたいんでしょ?」
「うっわ、きっしょ。無理無理無理、何でこんなことしてんだろ。あいつのことなんか忘れたしぃ。何処で何してようが関係ないね」
その漫画アプリを開いているスマホを落とした。図星をつかれたようにあからさまに強がって、否定してくる。
「素直じゃないですね、好きなら好きでいいじゃないですか」
「なんかぁ、こんな面倒なことしないで、寂しいときにただ抱きしめてくれる奴が欲しい。俺の望みなんてそんなもん」
子供っぽいこの人もちゃんと大人をしていて、そんなもんすらも満たしてくれない、満たされない人生に落胆している様子だった。
「ねえ、何でまだ君が配達してくるの?」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけどさあ、振った男の元には来たくはないんじゃないかなあって、気遣っただけだよ」
サインを書きながら、片手間に話して、真剣みを消した。君に振られたことを深刻に考えてるなんて、気付かれたら恥ずかしいから。
「貴方がそんなこと思うんですね」
なんて馬鹿のくせして俺を馬鹿にしてくる。
「思うよ、そりゃあ」
「まあ、これは仕事なんで」
「仕事ねえ……」
仕事でしか顔を合わせたくない関係になってしまったことを悲しくもあり、感慨深く思った。無意味に目を擦った。
「残念ですか?」
「いいやあ?ところで、浮気相手とはうまくいってんの?」
俺だけが何か傷付いているみたいで、馬鹿らしかった。だから嘘ついた。ヤケクソで話題を逸らした。
「別れました。二兎追うものは一兎も得ず、その通りですね」
「まじで?馬鹿じゃん」
何度も何度も君のことを馬鹿だと言った。その本意は、馬鹿みたいに愛らしい、だった。素直に喜びや好意を表す姿、俺が泣いているとそばにいて抱きしめてくれる、君が強がりで格好つけようとする姿でさえ、滑稽で愛らしかった。肉体的に繋がってなくたって、精神的には繋がっている気がしてた。あの愚行のあと、俺は君を不機嫌に任せて突っぱねて、君の「愛してる」という言葉を嫌に思った。俺はこれのために愛されてるのかと思えて嫌になった。君との別れは、君が浮気したのが原因で、でも俺も我慢の限界で、好き放題に君で遊んだ。君の性欲は俺では満たしてあげられないから、君が浮気したって俺は何てことなかった。だけど君は、それが俺のその態度が嫌だったらしくて、勝手に浮気しといて、逆ギレみたいなことをされて、君が分からなくなってしまった。繋がっていたはずの君が分からなくなってしまった。
「貴方が俺のことそう呼ぶの、すごい好きでしたよ」
玄関の中まで入って、廊下に重そうな荷物置いて、至近距離でそんなことを言う。馬鹿正直。
「ありがとう」
教科書にならった色仕掛けで、君の首に両腕を回す、このままキス、なんて。
「俺にまだ未練でもあるんですか?」
「いいや、別に、ただ可愛がりたかったんだ」
「俺はずっと未練たらたらっすよ、今も貴方にキスしたい」
俺を振っといて、今更何言い出すんだ。でも可愛すぎて可愛すぎて、つい甘やかしたくなってしまう。最後にもう一回だけ、と思ってキスしてしまったのが、きっと間違いだった。




