5-3 だからそれは……
「どう、だったかしら……?」
いつの間にか、白い花が咲き乱れる丘の上に僕はいた。でもここは潮の香りも濃厚な海辺で、引き戻されたと気付いた僕はゆっくりと目蓋を上げる。
一つ残らず光の余韻が天に昇るのを見届けて。
知らず、満面の笑顔で、リイをリュートごと抱きしめた。
「ななななに、いきなりどうしたの!」
「……どうもしないよ。こうしたいくらい良かっただけ」
「そ、そう、分かったわ! 分かったから!」
離してくれと真っ赤な顔で懇願されて、僕は渋々腕を解いた。
こんな風に触れる度、僕が施した所有印は深く沈み、いずれ、リイの魂に刻み込まれる。
いずれ。
君は、僕なしではいられなくなる。
――という未来に、してしまえば良かったかなあ。
そこまで傲慢になれない僕は、保護者を明示する迷子札のような所有印を施しただけで、リイの心に干渉することを自分に許さなかった。
音楽に影響しては本末転倒だからだ。
しかし、守ろうとしたものが手の中にあると、もっと多くを望んでしまいたくなるのが人情だ。
――リイはどう思う?
魔王さえも虜にする、甘い毒。
ひどい中毒性に捕らわれた僕が、それ故に君の伴侶になったと言えば。
人情を語る資格のない僕が、もっと多くを、君の全てがほしいと言ったら。
――泣いて嫌がられたら?
不安が頭を離れない僕は、リュートを渡す前に逆戻りだ。
考えすぎて動けない。恐れ、緊張して、自分からは何ひとつ切り出せそうにない。
どこまでも人間らしい感情が、今この時ばかりは邪魔で仕方がなかった。
僕は魔王なのに。
君から自由を奪うことだって、本当は簡単にできるのに。
現実に自由を奪われたのは僕の方だ。
それが毒の本質だと、やっと僕は、認めるに至った。
――だから、何とか言ってよ。
情けない心の声は届いたらしい。
何ともない顔色に戻ったリイが、ごくごく普通に、二日前の会話を引っ張り出してきたのだ。
「まだこんな時間なのに、本当に日差しがきついのね。この子にはちょっと可哀想かしら」
「……うん、まあ、そうだけど」
自分だけ通常営業に戻られて、返す相槌には苛立ちが滲んだ。
――何か言えとは思ったけど、何でも良いわけじゃないんだよ……!
これこそがリイの中の序列なのだと思えば、張り詰めていた極太の綱もぶつんと切れる。
「ねえ、他に……!」
「魔王様は……」
言いかけた声が重なって。
僕は、手離そうとした落ち着きを慌ててひっ掴んだ。
「ま、魔王がなに?」
「お迎えには、来てくれなかったのね。私は、魔王様にもご所望してもらえなかったのね」
リイは静かだった。
淡々と、紙に記された文字を読み上げるように、我が身の結末を確認していた。
「魔王は……」
正確に言うならば迎えは来た。氷の魔王だ。
しかし僕は、方向違いの落胆を否定してやりはせず。
――森に出向いて火をおこし、君に寄り添ったのは誰? 今、君の隣にいるのは? そのリュートは誰が取り戻したんだっけ?
人間とは不自由な生き物だ。
因習に捕らわれたロンバルトの民も然り、リイも然り、自分の中の当たり前に柔軟性がない。無意識に、常識を覆すことを避けようとする。
これだけの長い年月を二人で過ごしながら、リイは頑なに、誰にも望んでもらえないと信じ込んでいた。
王都の刺客でもない僕が常に側にいた理由を、改めて考えようともせず。
「……魔王は、ちゃんと迎えに行ったよ」
リュートを収める手がぴくりと止まった。
迎えに来たではなく、行ったという微妙な違いに。
「本当?」
顔が上がる。
リイの、ただただ怪訝な顔が。
「来てくださったの?」
「そう、迎えに行って、魔王の城に連れて行こうとしたんだよ」
ではなぜ、南の海にいるのか。
瞳を過ぎった疑問に、僕は小さく笑った。
「色々とね、事情があってさ。自分の城に戻れなくなった」
「ええっ? 大変じゃない!」
「そう、大変。使える力は限られるし、それなのに人間の世界は制約が多いし。地味に苦労するんだよね」
座り込んだ僕たちの背には影が二つ。地面を這う葉っぱの上で、仲良く風に揺られて並んでいる。
この世界にいる限り、魔王の力を完全に使わず生きることはできない。特にリイのためには細心の注意を払う必要があって、僕は再び影を用意していた。
「リイ、僕が誰だか分かる?」
リイのおかげで、らしくもない緊張はなし崩し的に霧散した。
案外、余分な力が抜ければ何だって言えるものだ。
それは、僕に限ったことではない。
「分からないわ!」
想像以上にあっけらかんと返すから、その様子が可笑しくて、僕は今度こそ声を上げて笑った。
「そうだよね、分からないよね!」
「……でも、あなたがどんな人かは分かる。ずっと側にいたんだもの。ねえ、私の優しい美少年さん?」
「私の」と、まるで所有印を刻むかのような言い方で、僕とは対局にある呼び名を口にしたリイ。
その響きにくすぐられ、砂浜の縁を彩る緑の枝葉も踊り出す。
「リュートを……ありがとう。叔父様から取り戻してくれたんでしょう?」
「リイのリュートだからね」
それは、僕にとって絶対的な意味をなす言葉で、だから簡単に口をついた。
ところが。
リイの眉間に、きゅっと皺が寄った。
まとう雰囲気がにわかに硬化する。
居住まいを正し、厳しい光を宿して、僕の目を真っ直ぐに射抜いた。
「どうやって取り戻したの?」
問いかけに込められたリイの覚悟。
朝日を浴びる小さな顔は、僅かたりとも笑っていない。




