5-2 魔王様のやんごとない真実
こういうのは現物を見る方が早いのだが、間違いなく泳げないリイには無理な相談だった。
珊瑚は動物だが獣ではない。海の生き物だが魚ではない。
例えて言うなら骨。
肉の削げた剥き出しの骨が、海の底から我も我もと触手を伸ばし、微生物を食らって生きているのだ。
噛み砕いて説明したにもかかわらず、何が悪かったのかリイの顔は曇る一方だ。
――おかしいな。これ以上は説明しようがないんだけど?
面倒になった僕は適当に切り上げた。
「海の色が変われば、ここからでも珊瑚が見えるかもね」
「そ、そうなのね……」
透き通る青い海を求めて、僕たちは水平線に目をやった。
昨夜。
氷の城から速やかに立ち去ろうとした僕は、あろうことか天井から降ってきた氷柱に足止めを食らった。
靴の先、指一本分。
抉られ、氷片を散らし、亀裂が走った目の前の床からじろりと視線を上げれば、諸悪の根源がにこやかに申し出る。
『この若造が、力を使うなと言っただろう。どこへなりとでも私が送ってやる』
それなら、南の海へ。
意趣返しや嫌がらせのつもりはなかったが、すっかり開き直っていた僕は、氷の魔王が本能的に避ける暖かい地域を指定してお言葉に甘えた。
ちょっと嫌な顔をされたけれど魔王に二言はない。
僕たちは、氷の魔王が腕を一振りしただけで人間の世界に吹き飛ばされ、更にはロンバルトから遙か遠く、地名も忘れて久しい南の海岸線に送られたのだ。
一の配下は途中で振り落とされてしまったようで、気付いた時には気配がなかった。
冷たいようだが……いや、はっきり言うと冷たいのだが、僕としてもそこに文句はない。
僕には、王たる自覚と器がいささか不十分だ。
氷の魔王の指摘どおり、あるべき時間を切り捨ててはいけない。
呼び声に応えた配下が総じてちびっ子だったという現実から、目を背けてはいけない。
いつかは、それこそ氷の城を火あぶりにするような極悪非道の魔王になるとして、リイのことを含めても、当分は穏やかに過ごすべきだった。
雛の時代と同じように。
となれば、どの側面から考えても、平凡で代わり映えのない愛すべき日常に戻ることが最善策だったのだ。
――次はこの話か。
朝食を求めて飛び回る海鳥を眺め、どう切り出そうかときっかけを探す。
問題は、リイがどこまで勘付いているかである。
今さら拒絶はないだろうと思う反面、言葉で聞かされる衝撃は別物ではなかろうかと、益体もなく逡巡した。
そんな時、視界の端で動くものに気付いた。
「リイ?」
「……え?」
呼びかけたことで止めてしまったけれど、リイの右手の指先は自分の足を引っ掻くように動いていた。
かすかに、柔らかく、優しく。
無意識に、そこにないリュートを奏でていた。
――そうだね、こっちが先だったね。
僕は立ち上がった。
「大丈夫、ちゃんとあるよ。その汚れたドレスも着替えようか」
何のことかと目を瞬くリイには構わず、虚空に向けて背伸びをする。まるで、ちょっと高い棚に腕を伸ばすように。
すると、僕の手の中には、思い描いた品がちゃんと収まっていた。
「趣味じゃないなんて苦情は聞かないよ。はいこれ、着替え」
「え、ええっ? うちのお店のサンプルじゃない! どうしたの、というかどこから出したの!」
「耳元でうるさいな。バランス崩したら大変でしょ、と……」
大きな麻袋を両手で掴んで、リイに厳しく言い放つ。
そんなことをしなくても、見覚えのある楽器ケースが中から覗くと、リイの口はぴたりと閉じた。
「リイのリュートだよ」
必要のない台詞を敢えて告げたのは、僕の期待の表れだ。
喜んでほしい。喜ぶ顔が見たい。
けれど、すぐには狙った反応がない。
リイは。
楽器ケースの中からそろりとリュートを取り出して、存在を確かめるようにボディをなぞり、繊細な彫刻に見入っている。
――どうしたの、ねえ、何とか言いなよ。
僕は、気が長い質だ。
――嬉しいなら嬉しいってさあ!
こんな風に、感無量のリイを待てないような情けない魔王ではない……と自負していたのに、現実は違った。
「弾いてみて?」
早々に痺れを切らし、欲望に忠実に口が開く。
言い訳のようだが、これには楽器の状態を確認する意図もあった。見た目に異常はなくても、窓辺に放置されていたのだから不安は残る。
リイにとっては代えがきかない大切なリュートだ。壊れたなら買えば良いという話ではないのだ。
僕のおねだりにぎこちなく頷いたリイは、足を組んでリュートを構えた。ぽろん、ぽろんと一本ずつ弦を弾いてはキーを確かめ、全部できたところで開放弦を順に鳴らす。
弦の張力が優しいリュートはキーが乱れるのも早い。ほぼ一曲ごとに調弦を要する我が儘な楽器は、今、僕と同じ気持ちで出番を待っている。
いつになく真剣に、手早いけれど正確な調弦を終え、リイの左手がポジションを押さえた。
「うまく弾けないかもしれないけど……」
そんな前振りの後、右手の指先が最初の弦を弾いた。
たった一音鳴らしただけで、光が踊り、世界が変わる。
――『春の歌』か。
音が、僕の周りを軽やかに跳ねた。
初めて出会った時から息をするように馴染んできた曲は、怒涛の勢いで僕を満たし、体の奥底に泉を作る。
そうされて初めて、飢えていたのだと僕は知った。
――ああ……君の音楽は、いつだって美しい。
それを奏でるリイは、いつだって。




