4-1 善良なる破壊王
星も照らさぬ闇深き夜。
「魔王の花嫁」を送り出したロンバルトの街には、生暖かい静寂が漂っていた。
僕の正面にそびえ立つのは、防犯用の木戸をきつく閉ざした三階建ての立派な家屋。
しかし、ここからだとリイの部屋は見えない。
屋根裏部屋、という名の日当たり皆無な狭い物置は、建物裏手の変な位置からしか覗けないのだ。
そのせいか、こうやっていても何の感慨も沸いてこなかった。
店主一家の居住スペースは三階部分で、裏側の庭に面して開口を取っている。三階のこちら側は客室、二階の一部も客室で残りは倉庫、一階は全て店だ。
「服は店の方から、だな……」
まずはリイの着替えだ。
僕から見れば痩せ過ぎなリイは、年頃の女共にとっては理想的な体型らしく、そういう顧客を狙った店頭サンプルはリイのサイズを基に作られているらしい。
それなら、継ぎ接ぎばかりでサイズの合わない年代物の普段着より、物もデザインも新しいきれいな品を選びたいだろう、普通。
だって、リイにはその方が似合うのだから。
「あとはリュートを……」
あった。
僕にとっても馴染み深い楽器は、三階の裏手、居間の窓辺から救いを求めていた。
そして、滂沱の涙を流していた。
窓辺だ。
太陽の日差しが燦々と降り注ぐ窓辺に、あの繊細なリュートを。
――無事なのか?
リイの父親が王宮から持ち出した愛用品は、当然ながらレイアの手に渡ることはなく、大きな声では言えない商売の目玉商品にされてしまった。
付けられた破格の値に目が眩んだ男は、目下、更なる高値を付ける相手を探している。
そんな相手が現れる可能性は万に一つもないと知らず。
――まあいいか。とにかく、狙うべきポイントは分かった。
色々と思うところはあるが、僕は早く森に帰らなければならない。
寝床で高いびきをかく男の顔なんて拝む余裕がないほどに、さっさと用事を終えてしまいたかった。
「あの男は……」
それなのに。
僕の無意識は、いつかの報復を誓った相手を勝手に思い描くのだ。
――集中しろ。
叱咤すると、周囲の空気がぴんと張り詰めた。
あるべき場所から僕を呼ぶ数多の声が、そこかしこで唸りを上げる。
その気配に埋もれたいくつかの配下が、意図を察して這い上がってくるのが分かった。
僕を喜ばせよと本能に刻み込まれた彼らは、重なった世界の穴をこじ開けて、そんなことのためだけに顔を覗かせる。
調和が歪み、二重三重に視界がぶれた。
闇から生まれた輪郭のない連中が、今か今かと喜色を浮かべて僕を見ている。
焚き火を作った時はあわや大惨事などという失態を犯してしまったが、時は満ち、条件も揃った。
もう、雛ではない。
僕は魔王だ。
いつだったかリイが想像していた、数いる魔王の中の一人だ。
ただ、あの話をした頃の僕は雛だったから、どの魔王に嫁ぐのかとリイが悩んだ数の内には入れなかった。
期せずしてこんなタイミングで覚醒するとは。
さすがは僕の花嫁、僕を操るのが上手い。
「よこせ」
端的な言葉を皮切りに。
闇が蠢き、見えていた指先が薄墨に沈んだ。
濃厚な夜の気配が、人の目ならば使い物にならないほどに膨れ上がる。
周囲を埋め尽くすのは人外のものたちだ。
それでもまだ、あちこちの空間を切り裂いて我も我もと溢れ出る。向かう先は男の家。吸い込まれるように、一匹残らず壁の向こうへと消えていく。
どろり、どろり。
見つめる先、三階の辺りで、ひときわ重たげに空気がよどんだ。
――しかし、大きさがちょっとあれだな。
僕の横を、拳サイズの黒い塊が跳ねるように通り抜けた。
さっきから思っていたのだが、命令を聞いて出てきた連中が軒並み小さい。小さいということはそれなりの力しかない。
間違って散歩中のちびっ子でも呼んでしまったのではないかと、どこか愛嬌を感じさせる後ろ姿を見ながら眉間に皺を寄せた。
――大した仕事じゃないから大丈夫だろうけど……。
遊具に飛び付く子供のように、わらわらと湧き出すちびっ子どもを見守っていると。
唐突に、異変は起きた。
大地が不機嫌に唸ったかと思えば、裂帛の気合いで爆風が噴き上がったのだ。
祭壇を砕いたときの衝撃など比ではない。
僕は、身をねじるようにして顔を庇った。
建物の倒壊は免れないだろう。そんなことは見なくても分かる。現に僕は、突き上げられ、共倒れに崩れ落ちる建材の呻き声と、この世の終わりのような大地の悲鳴に飲み込まれていた。
が、僕が感じたのはそれだけだった。
音と振動、それ以外には何も感じない。
――そうか、そうだった。
僕の周囲には、力を使い慣れない僕に代わって誰かが張った透明な防壁があった。
おかげで僕は、硝子一枚隔てた特等席にいるような状況に置かれていたのだ。
自分でやったのであれば、聴覚を麻痺させる爆音も安定しない足元の揺れも全て遮断できたはず。細かな塵が雪のように降り積もる光景を前に、力の使い方を一つ学んだ。
――しかし、なぜだ……?
ぺしゃんこに潰れたリイの生家は、今や残骸となり果てていた。
――ここまでしろとは言ってないぞ。
僕の声一つで世界を壊してしまえるけれど、よそ様の世界を壊して喜ぶような趣味はないし、無駄な犠牲も求めていない。
だから僕には細心の注意を払う用意があって、僕の配下ならそんなことは熟知しているはずだ。
それならばなぜ、三階建ての建物の屋根が目の高さにあるのだろうか。
失敗の原因を冷静に思い返していると、どこからともなく闇に紛れて……というより闇そのものが、聞き取りにくい声で僕に囁きかけた。
『我が王の仰せのままに』
――仰せのままに、何なの?
分かったのは、リイの服とリュートがこちらの手にあるということだ。
姿形は見えないけれど、確かに僕の世界に引き上げたのだろう。それは、僕自身の肌でも感じていた。
姿形が見えないのは声の主も同じことで、そのくせ、ある場所を見てほしいと気配だけで促してくる。
――おかしい。これは、僕の一の配下だろう?
防壁で僕を守ったのは妖しくも美しい人型を取る彼だ。しかし、いつまでたってもその姿を現さない。
不審を覚えながら見えない指先を追って、僕の思考はぷっつりと止まった。
瓦礫の上に、呆けた顔の生首を見つけたのだ。




