2-5 最後の晩餐会
「あなたにはずっと感謝していたの」
突然、そんな風にリイは切り出した。
「初めて声をかけられた時は、『春の歌』をこっそり弾いていたところだったし、怒られるのかと思ったのよ。でも、あなたは素敵だと言ってくれたでしょう。言葉にできないほど嬉しかったわ」
着地点の見えない昔話が始まった。
唐突な話題転換に、忍耐力を総動員させて受け身を取る。
僕の質問を全て無視するのだから、リイなりに重要な意味のある話なのだろう。
「その後いろいろあって……指が全然動かなくて初心者みたいな音しか出せない時も、優しい響きだねって言ってくれたの」
確かめるように間を置かれ。
期待の眼差しに、曖昧な頷きを一つだけ返した。
――そんな些末な出来事まで覚えてろって?
自分の言動など、案外すぐに忘れるものだ。
懐かしくも愛おしい記憶にあるのは全てリイのことで、僕が何をしたかではない。
リュートを再び弾けるようになった頃のリイの様子は、今も鮮やかに覚えているのだが。
「私にはリュートしかないのに……満足に弾けなくて、私自身、もう駄目だと諦めた。だからあの時、私の音楽を信じていたのはあなただけなの」
以前のように弾けない自分が辛い。
辛い出来事なら山のようにあっただろうに、あの頃のリイは全身でそう叫んでいた。
いずれは前のように弾けるだろうと、隣にいながら時を待っていただけの僕。
一度でも、諦めたのか。
諦めるほどに辛かったのか。
その事実を、僕は初めて知った。
「だからね! あなたのおかげで、今の私がいるわけ! こんな風に会えるのも今日で最後だから言っておきたくて!」
今までありがとうと、リイが言う。
――それなのに、また諦めるの?
怒りたいのか、悲しみたいのか。湧き出した感情の色が自分でもよく分からない。
一つ確かなことは、悟りきった微笑みの前ではこの僕でさえ無力ということだ。
リイは、僕が怒らないのを良いことに言いたいだけ言うと。
「旅に出るのよね、今度はどこに向かうの? 南の方なんてどう? きらきら輝く青い海とか、私も見てみたかったわ」
またしても勝手に話題を変えた。
引き止める間もなかった。
ロンバルトの海は暗くて荒い。だから島の反対側に広がる海の様子など、リイには想像することしかできない。
空の色に近いのか、宝石のような色なのか。
話に聞く南の海へ、懸命に心を飛ばしている。
取り残された僕は、今日一番でむっとした。
「……青い海を前にしても、どうせリュートに夢中で景色どころじゃないんだから、リイは残念だよね」
「そ、そうね。穏やかな海辺で弾くのは気持ちいいでしょうね」
せっかくの妄想に入った横槍に、リイは笑顔で対抗する。
「南の方は、ここの何倍も太陽の光が強いんだよ」
「じゃあ、雪なんて降らないのね。暖かくて羨ましいわ」
「そんな場所で弾いたら、一発で弦が駄目になるんじゃないの?」
むしゃくしゃした気分の赴くまま、弱いところを突いて黙らせてやった。
「……ささやかな夢くらい見せてよ」
「現実的じゃないよね」
憎まれ口を叩きながら、腹立たしさの理由を探って記憶を辿る。
その途中で。
――夢か。
そんなありふれた単語さえ、リイの口からは初めて聞くと気付いたのだ。
そこに、ステージ再開を誘う女将の声が飛び込んだ。
「はーい! じゃあ、行ってくる。夜も遅いから、先に帰ってしまってね」
社交辞令を言い置くと、今までの会話などなかったかのようにリイは勢い良く席を立つ。
あっさりと、何の未練もなく。
それがまた癪に障ったのだが、演奏の前だからと我慢した。
「僕の大事なリイの音楽だよ、聴かずして帰るわけないでしょ」
背中に向けた僕の返事はお気に召したらしい。
くるりと跳ねるように振り向いて、リイは可愛らしくはにかむのだ。
ねえ、リイ。
――君はなぜ、そんなに簡単に手放してしまえるの?
涙を我慢して練習を重ねたリュートも、未来へ続く道も。
僕は不思議でならない。
もう少し執着してほしい。
もう少しで良いから、しがみついてほしい。
――居場所がないから?
君の居場所なら、ちゃんとあるのに。
微笑みで殺してしまった、君の心の中が知りたい。
みしり、みしり。
喝采とリクエストを叫ぶ客たちの声に紛れて、何かが軋む不穏な音が床を這う。
しかし、ステージに釘付けの連中も、動き回る店員もそれどころではない。
幸いにも、迫り来る気配に気付いた者は誰一人としていなかった。
――違う。
僕は、テーブルに置いた両手で拳を作る。
――間違えるな。
奥歯を噛み締めれば、かちゃかちゃと不快な音を鳴らす食器が大人しくなった。
足元の微弱な揺れも静まって、ただただ煩いだけの店内が蘇る。
――真っ先に狙うのはあの男だろう?
指の隙間から、僕の終わりを暗示する光が漏れた。
――時間がない、か。
それでも今はまずい。
今は、リイがリュートを弾いている。
――リイを守るのは誰だった?
手のひらに意識を集中して、光を潰すように強く拳を握り込んだ。
消えろと、ただそれだけを一心に念じる。
全神経を注ぐため、愛するリュートの音さえも頭の中から追い出して。
そして。
手に入れた一応の平穏と引き換えに、僕は、あるものを失った。
僕の足元から影が消えた。




