2-4 君の真実
弾くことは苦ではない。
弾けなくなるよりはずっと良い。
何曲も何曲も、既に弾いた曲をもう一度リクエストされても笑顔で応じたリイの顔には、ありありとそう書かれている。
指を閉じたり開いたり。
僕たちのテーブルには、この店に入ってすぐ出された軽食が原形を留めたまま並んでいて、すっかり冷めてしまっていた。
一応勧めてはみたけれど、予感したとおりリイはゆるりと首を振る。
「私はいいわ。お腹が空かないから」
人間とは身勝手なもので、リイの姿が消えた途端、客が声高に喋り立てる話題は仕事や妻への愚痴に取って代わった。
でも、リイがステージに戻れば、待ってましたとばかりに囃したてるのだろう。
「何か聴きたい曲はある?」
「へえ、僕のリクエストまで受け付けてくれるんだ?」
「こんな日に拗ねないで」
子供みたいな言われようだが、それはそれで嫌ではない。
だったら、と。
非難されたとおりの子供じみた口調で、リクエストの代わりに不満を吐き出した。
「僕はずっとリイの音楽を聴いてきたのに、リイは全然僕の言うことを聞いてくれないじゃないか」
「今日は朝から弾きっぱなしよ」
「足りないね。あんな連中の相手をする前に、リイは僕と向き合うべきだ」
「そんな言い方、久し振りに聞いたわ」
呆れた風にくすくすと笑うリイへ声を大にして言ってやりたい。
自分こそ、尊大な物言いの子供だったくせに。
僕は、リイが自由だった頃を知っている。今となっては忘れ去られてしまった、リュートが上手いだけの生意気な子供を。
だから、狭い店内を見回して鼻を鳴らした。
どいつもこいつも、リイの何を知っているというのか。
流れた時間はほんの僅かでも、不確かで朧気な記憶がこんなにも愛おしくなるとは、あの頃の僕には想像もできなかった。
「そもそもだよ、リイの音楽は、あのリュートがあってこそ完成するんだ。みすみす叔父さんに奪われてご両親に何て言い訳するの」
「それは……」
「レイアが楽器嫌いだって知ってるよね? 叔父さんが仕組んだことだって知ってるよね? 基礎学校に行けなくなったのも、屋根裏に追いやられたのも、「魔王の花嫁」を押し付けられたのも、全部叔父さんの策略だって知ってるでしょ?」
傷付けると分かっていながら、僕は改めて現実を突き付ける。
ところが。
みるみる萎む表情……を期待していたのに、リイは小首を傾げただけで。
「叔父様のせいじゃないわ」
と、あろうことかそんな台詞を言い放った。
――……馬鹿には言葉も通じない。
黒い双眸は透き通り、本心を如実に映し出している。
黙り込むのは僕の番だ。
この街の人間には黒い色素が流れていないのか、昔から髪も瞳も茶色いのが普通だった。
しかし、王国全土を見渡せば、むしろ黒を持つ人間の方が圧倒的に多い。
魔力を用いて長い戦争を終わらせた一族はもとより、王家に協力し、王家に賛同する人間はみな黒を身に宿す。魔力の欠片も持たない人間が淘汰され、茶色い色素が薄れたのは自然の成り行きだった。
それなのに、黒は魔が好む色と決めつける矛盾には思うところがあるが、今は置いておこう。
この国は狭い。
時代と共に血が混ざり、ロンバルトにも黒い髪や瞳を持つ子が生まれるようになる。
そんな子供は、早くから街を出た。
魔物の子と、正面切って蔑まれるからだ。
生まれながらに漆黒を宿す赤子を抱いて、リイの両親も深く悩んだ。
こんな街でも出て行けない事情がある。
ロンバルトに残ったのはやむを得ない選択だった。
そういう背景もあり、基礎学校に入るまでのリイが人前に出たことはなかったが、彼らは十分に幸せだった。
まさか、一人娘がこんな大人になってしまうとは。不幸な事故で神の御許に召された両親は涙に暮れているだろう。
「いやいやいや、間違いなく叔父さんのせいでしょうが!」
我に返った僕は慌ててまくし立てた。
「レイアの髪が黒いの、知ってるよね? 似たような年頃で、瞳も黒に近くて、「魔王の花嫁」にするならレイアでも良かったって、リイも聞いてるでしょ?」
そうなのだ。
生まれた時には茶色だったレイアの髪は、十歳を迎える頃には黒く変化していた。
年寄りの中にはレイアを推薦する者もいたが、金を握らせて黙らせたのはあの叔父だ。
店の跡継ぎが必要だとか、音楽の腕は敵わないだとか、要するに我が子を守りたい男はそのためだけに育てた姪を売った。
「魔王の花嫁」が決まった数日後、祝賀ムードに水を差した派手な噂を、まさか知らないとは言わせない。
「ねえ、リイ。交換したリュートを、一度でもレイアが弾いてる姿を見たことある?」
不気味なまでに凪いだ瞳に、無駄と知りながら僕は問う。
まだ小さい頃、祖父を亡くしたばかりで悲しみの淵に立つリイは叔父から暴力を振るわれていた。
暗黒の一年間の出来事だ。
普通ならばさぞ恐怖するだろうに、しかしリイに怯えた様子はなく、僕はそれを不思議に思ったものだった。
リイが、本当に恐れているものは。
リイが見つめているものは。
ねえ、リイ。




