その扉を開いた者は
それから約六十年後。
彼は戦場に立っていた。
大軍を指揮する将軍として。
ただし、その場所は日本ではない。
いや。
地球ですらない。
そう。
そこは異世界。
そして、彼はそこで赤子からやり直し、アルディーシャ・グワラニーという名を得ていた。
そう。
彼はれっきとした異世界人に生まれ変わったのだ。
ただし、元の世界の記憶は残っている。
鮮明に。
つまり、これは異世界転生。
ただし……。
彼には自分が死んだ記憶がなかった。
そして、実を言えば、彼の記憶は正しかった。
彼は生きたまま異世界に飛ばされていた。
つまり、定義上死んでいないので異世界転生ではなく、異世界転移となる。
だが、赤子からやり直している。
これは事実。
そうなると、やはり、異世界転生となるのか?
もしかしたら、これ異世界への移動形態のということになるのかもしれない。
だが、名称などたいした問題ではない。
とりあえず「異世界転送」とでもしておくことにして、より重要なことへ話を進める。
なぜ彼は異世界に飛ばされたのか?
誰によって。
答え。
その実行者はあの店のマスターだった。
そして、元の世界における彼の最後の記憶となるマスターの呟きこそ転移の呪文となるものだった。
その日の開店前、マスターである男は弟とこのような会話をしていた。
「では、予定通り、おまえが店を出て、近くのコンビニから電話をかけてきたら実験を始める」
「そして、俺は一時間後に戻り、仕事をすればいいわけだな」
「そのとおり。もっとも俺が向こうに行った瞬間、俺に関する記憶も記録もこの世界からに消えるようなのでおまえにその記憶があるかどうかもわからぬが」
「そこについては信用してもらうしかないのだが、とにかくそれから俺は仕事を続けながら兄貴を待てばいいのだな」
「そうだ」
「……それにしても、兄貴が異世界から戻ってくると、時間が巻き戻り、兄貴が向こうに行った直後から再び時計は動き出すというのはイマイチ理解できない。というか、俺からすれば、兄貴が古書店で見つけてきた怪しげな魔術書を使って異世界とこちらを行き来していること自体いまだに信じられん」
「まあ、そうだろうな」
弟の言葉に兄は薄く笑う。
「実を言えば、起こっていることを説明しているだけで、俺にだってどうやってそうなるか、それから俺が異世界に転移し戻ってくるまでの間はこちらはどうなっているのかなどさっぱりわからんというのが正しい。ただし、こうして向こうから商品を持ち帰っているのだ。俺が異世界に行き、多くの時間を過ごした後に帰ってきていることは本当だ」
そう言って、男は手元にあるこぶしほどの大きさの塊を転がす。
「向こうでは光石と呼ばれているこれは加工できないので、きれいではあるがあまり好まれていない。だが、こちらでは……」
「ダイヤの原石。しかも、かなりの高品質なのだろう。しかも、デカい。いい商売だ」
「というよりも、タダ同然で手に入れてきているのだからまったくのぼろ儲けだ。さらにいえば、向こうでの商売の根幹である金取引だってその対価はA4サイズのコピー用紙少々……」
「それも何度も聞いたが、相手はよく黙って取引に応じているとつくづく思うぞ」
「……金や銀の売り手である魔族の国は紙というものを自らの手では生産できない。だから、たとえこちらでは格安のものであっても彼らにとっては十分貴重なものなのだ。もっとも、それはあの世界全体にいえることではある。なにしろ向こうに存在する国、そのすべてで紙として流通しているのはいまだに羊皮紙や木の皮なのだから。まあ、そういうことですべてを知る者にとっては不平等に見えるその取引も当事者にとっては思われているほど不平等というわけではないのだ。まあ、向こうでは金も銀もこちらでは想像もできないくらいの量が採れるので品物の価値自体がこちらと完全に一致しているわけではないのだが」
「わかった。だが……」
「……許可も得ないまま実験台になってもらう彼らにはやはり申しわけない。皆常連客だからな」
言葉が途切れてから一瞬の百倍ほど過ぎてから唐突に漏れた弟の呟きのような言葉に小さく頷いた兄は目を瞑ける。
「さりとてさすがにそれを募集するというわけにはいかないだろう。だが、問題をすべてクリアしないかぎりおまえをあちらに呼び込めない。結局彼らを犠牲にするしかない」
そう言った兄は異世界との行き来に関する理を口にする。
「……俺が異世界に転移するとき、手に触れているものはそのまま持ち込める。だが、そうでないものは行方不明になる。これは異世界からこちらに戻る場合でも同様である。そして、こちらから転移させられるのは魔導書に書かれた通りに描いた魔法陣の範囲内のものであるのだが、殺傷力のあるものは手にしていても向こうの世界には持ち込めない。最後に異世界からこちらへ転移する場合、転移先として指定できるのはこの場所だけ。とりあえずここまでは間違いないと思われる。今回は人間を異世界転移させた場合にはどうなるかということの確認だ。今回の実験がうまくいったら犬か猫を抱えて転移する次の段階に進んだ実験をする」
「それは手に触れた状態で生き物が転移したら異世界でどのような形で歩み始めるのかということを確かめるためだな」
弟が口にした異世界の理のひとつを肯定するために彼はまず頷き、それから弟に何度も聞かせた自分の体験談をもう一度口にする。
「そうだ。向こうに渡った俺は海賊の長を親に持つ赤ん坊となり、ここに戻るまで百年近くかかった。まあ、そうはいってもそれは向こうでの時間であり、ありがたいことにこちらではまったく時間が進んでいなかった。実をいえば、こちらに戻ってくるとき、それを知っていたわけではない。つまり、下手をすれば浦島太郎。いや、戻った瞬間に骨になっていたかもしれなかった。今考えるとあの時の行為は浅慮が過ぎて怖くなる。まあ、それはさておき……」
「赤子から始めるというその理も俺が触れているかぎり免れることができるのなら、問題は大部分がクリアできる」
「……そして、それがクリアできれば俺も異世界に晴れて行かれるわけなのだな」
「そういうことだ。ただし、俺は異世界では魔法が扱える魔族として生きているが、おまえが何になるのかは保証できない。もしかしたら、向こうに渡ったこの世界の人間はすべてが魔族になるのかもしれないが、それは定かではない。とりあえず。俺が率いる大海賊ワイバーンは魔族と人間の混成チームだから同じ魔族ならアタリ。人間ならギリ合格ということだ。それ以外なら……まあ、魔法が使えれば少しは加点するがハズレといえるだろうな」
「ちょっと待て。いったいどのような生き物になるのだ?ハズレの場合は……」
薄い笑いを披露しあってから少しの間ののち、弟が再び口を開く。
「あの女性は避けることはできないか?」
「それは無理だな」
弟の懇願に近い言葉に兄はそっけない言葉とともに首を横に振る。
「彼女は毎日来る。そして、いつも閉店までいるだろう。ということは、彼女を省こうとしたら、いつまで経っても実験ができない。そうかと言って、人間の実験体がいなければ実験の意味がない。彼女のためだけに日本酒や、日本酒にふさわしいツマミを用意しているくらいだ。彼女がおまえのお気に入りであることはわかるが、あきらめろ。それに……」
「場所と種族はともかく、どこかには行けるのだ。才覚さえあれば立派に暮らしていけるだろう。彼女はあれだけの美人。どこに行っても心配ない」
「向こうに行くことができればアレ以上の女を紹介してやる。なにしろ、大海賊のたまり場である『すべてが揃う場所』アディーグラッドは文字通り金さえ払えば何でも手に入るのだから」
そう言ったところで兄は息を吐き出す。
「……だが、おまえの言うとおり、さすがに自分の都合だけで無関係な人間を実験台にするのはこちらの世界の人間としてはよろしくないな。しかも、タダ。これはあまりにも虫が良すぎる」
「……とりあえず、餞別代りにこの場にいる全員に一杯ずつ奢ることにするか」
そう。
彼を含めて、あの日あの店に居合わせた者たちは、マスターの「異世界転送実験」の被検体にされたのだ。
高級とはいえ、たった一杯の酒を対価に。




