そうして扉は開かれる
東京都新宿区某所。
いわゆるバーと呼ばれる店。
そこに二十代後半の男がやってくる。
彼はこの国のエリート官僚。
そして、その店の常連でもある。
……相変わらずだな。
店に入った瞬間、目に飛び込んでくるのは、語学には精通していると自負がある彼も見たこともない文字と魔法陣を思わせるデザインがあしらわれた天井と壁面、床のデザイン。
むろん、それはこの店が持つ落ち着いた雰囲気に相応しいとはいえない。
だが、それを除けば取り立てて変わったところがなく、なによりもここの酒はうまく、さらにそのうまさに反比例するように料金は安い。
……まあ、店内の異様なデザインなど気にならないと言えばウソになる。
……だが、これはおかしな客が来ないよう魔除けという意味があるのかもしれない。
……そういうことであれば結構な話だ。
少しだけ顔を顰めながら彼はそう呟きながら店の奥へと進む。
カウンターの内側にはこの店のオーナー兼マスターと、その弟と思われるふたり。
彼はそのふたりに軽く挨拶すると、いつもの席に座る。
そこはカウンターのほぼ中央。
そこから見て左側、つまり、入口に近い席には四人の男。
彼らのうちの三人はこの店の常連であり、何度か話をしたことがある。
ひとりは弁護士、もうひとりは一級建築士、もうひとりは貿易関連の仕事をしているとのことだった。
職業も年齢も三者三様であったが三人はサバイバルゲームの仲間で戦史同好会なるものをつくっていると言っていたので、初めて見るグループ内での最年長者でそのグループの師範役のようであるもうひとりもその仲間であろう。
……戦史同好会か。
……サバゲーには興味はないが、戦争の歴史に興味はある。
……もっとも、この国の最高位に位置し、事実上国を動かしてはいるものの、公僕である以上、形式上国民の代表で権力者である愚かな政治家とそれに忖度するアホな上司に時間を食いつぶされる日々を甘受しなければならない。そのような私に彼らと一緒に戦術談義をするなどという時間などやってくることはないだろう。
……そういえば、以前口を滑らせこの話をしたときに、弁護士の男は特別に共感してくれたな。もしかしたら、彼は元官僚だったのかもしれないな。まあ、専門分野的には一級建築士の方が話は合うのだろうが。彼が語った第二次世界大戦時の各国の要塞についての話は非常に面白かった。特にドイツ軍の潜水艦用の施設と防空要塞は。あのような話ならもう一度聞いてもいいな。
……そして、あの貿易マン。かなりのやり手のようだが家族とうまくやれていないようだった。話をしたのは一か月ほど前だが、あれから改善はしたのだろうか。まあ、結婚をしていない私が相談に乗れるわけではないのだが。
心の中でそう言って薄く笑うと、彼は視線を右へと動かす。
一席分が開いたところに座る男は初めて見る者だ。
さらにその隣にいるその男は時々見かけるものの、まだ話をしたことがない。
……あれはいわゆるオタク。このような場にあの姿で現れるということは、かなりレベルの高いと言わざるを得ない。まあ、外見は間違いなく場違いではあるのだが、特別何か迷惑行為をしでかしているわけではないのだ。見た目だけで毛嫌いするのは失礼だ。
そして、その奥に座るのは彼よりも十歳は年上と思えるいわゆるアラフォー女性。
彼女もこの店の常連だが話をしたことはない。
美人。
そして、体の線を強調するような服の上からでもはっきりとわかる細身の体には不釣り合いな豊かな胸。
外見だけを見れば、そちら側で仕事をしているように思えるし、その仕事でも十分に通用すると思われるが、観察眼に優れた彼の見立ては違った。
……以前同行していたふたりの若い男がともに医師であり、仕事の話をしていたことから彼女も医師。
……しかも、町医者ではなく、大病院か大学病院に務めている。
……さらに、相応の技術があり、それにふさわしい地位にある。
……もしかしたら、医療分野の研究者なのかもしれない。それから……。
……左の薬指に指輪がないこと。そして、ここに頻繁にやってくることから、少なくても現在はフリー。
もっとも、それらはすべて彼がこの店で手に入れた情報だけを頼りに推測したものであり、彼女に確認したものではない。
実をいえば、彼はこの女性に好意を寄せていた。
いや。
彼が持つその女性に対する感情は、好意というよりも好みと表現したほうがより適切なものではある。
年上の知的美人で冷たい声の持ち主。
髪は長く細身で胸が大きい。
それが彼の理想。
当然ながら、この店を頻繁に訪れている理由のひとつは、彼女が目当てと言ってもいいだろう。
……そのうち口説く。
……まあ、それは今日ではないだろうが。
やがて、弟が店を出ていく。
その様子を目で追っていた彼にマスターが声をかける。
「……どうぞ」
差し出されたのは小さなグラス。
むろん、中身は琥珀色の液体である。
「これは?」
訝しがる彼の問いにマスターは薄く笑ってこう応じる。
「今日はちょっといいことがありましたので、この場にいる皆さんに一杯ごちそうします。いい酒ですよ」
「では、ごちそうになる」
「ええ」
「おいしい」
確かにいい酒だ。
というより、これは絶対に高い。
高級酒を飲みなれている彼はそう直観する。
そして、これをサービスで提供するくらいにいいこととはなんだろうと思考を巡らす。
やがて……。
電話が鳴る。
どうやら、外に出た弟からのもの。
声を小さくして何やら話している。
彼が認識したのはその最後の言葉となる。
「……では、しばらく頼む」
その直後、マスターの口が何かを呟き、彼の視界は真っ白となる。




