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追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


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第八話 ― Dolce ~五月の風と約束~ ―

五月の風は優しかった。


春と初夏の間。


少しだけ暖かくなった空気が、町全体を包み込んでいる。


私たちの住む町は田舎だった。


コンビニも少ない。


電車も一時間に数本。


夜になれば驚くほど静かになる。


だけど。


観光地としては有名だった。


古い寺院。


歴史ある神社。


石畳の参道。


春から秋にかけて、多くの観光客が訪れる。


そして毎年ゴールデンウィークには大きなお祭りが開かれる。


私が楽しみにしていたお祭りだった。


     ◇◇◇◇


「兄さん、まだですか?」


玄関先で私は腕を組んだ。


十分前から待っている。


なのに。


兄さんはまだ出てこない。


「今行く」


部屋の中から返事が聞こえる。


そして数十秒後。


ようやく姿を見せた。


「遅いです」


「まだ集合時間前だろ」


「気持ちの問題です」


「理不尽だな」


兄さんが苦笑する。


私は少しだけ笑った。


こうして兄さんと出掛けるのも久しぶりだった。


病院へ運ばれてから。


色々なことが変わった。


だけど。


今日だけは。


そんなことを忘れたかった。


     ◇◇◇◇


待ち合わせ場所には奈津実さんと秋帆さんがいた。


「おっそい!」


開口一番だった。


「だから時間前だろ」


「十分前行動!」


「先生か」


奈津実さんが笑う。


秋帆さんも小さく笑っていた。


みんな揃う。


それだけで少し嬉しかった。


     ◇◇◇◇


参道へ入る。


すでに大勢の人で賑わっていた。


観光客。


家族連れ。


学生。


色々な人が行き交っている。


両脇には屋台が並んでいた。


焼きそば。


たこ焼き。


りんご飴。


綿あめ。


射的。


金魚すくい。


どこを見ても楽しそうだった。


「まず何食べる?」


奈津実さんが聞く。


「焼きそば」


兄さんが即答する。


「色気ないなあ」


「祭りと言えば焼きそばだろ」


「たこ焼き」


私が言う。


「私はみたらし団子かな」


秋帆さんが答える。


見事にばらばらだった。


     ◇◇◇◇


結局。


全員で少しずつ買うことになった。


焼きそば。


たこ焼き。


唐揚げ。


みたらし団子。


兄さんは焼きそばを頬張りながら歩いている。


本当に美味しそうに食べる。


その姿を見ているだけで安心した。


病院にいた頃は食欲も落ちていた。


だから余計に。


こうして普通に食べている姿が嬉しかった。


「陽香」


兄さんが振り返る。


「何ですか?」


「たこ焼き一個くれ」


「嫌です」


「即答」


「自分で買ってください」


奈津実さんが吹き出した。


「容赦ない」


「兄さん相手ですから」


「酷い妹だ」


そんな会話。


本当に。


何でもない会話だった。


だけど。


私は好きだった。


     ◇◇◇◇


神社へ続く石段を登る。


途中で兄さんの足が少し止まった。


ほんの一瞬。


だけど私は気付いた。


息が上がっている。


「兄さん」


「ん?」


「休みますか?」


兄さんは首を振る。


「大丈夫」


そう言って笑う。


だけど。


私は知っている。


本当は大丈夫じゃないことを。


病院で聞いた。


先生から聞いた。


兄さん自身も知っている。


それでも。


兄さんは普通でいようとする。


昔と変わらないように。


みんなを心配させないように。


その優しさが。


時々少しだけ苦しかった。


     ◇◇◇◇


境内へ着く。


歴史ある本殿。


古い木々。


静かな空気。


下の参道とは別世界みたいだった。


観光客も多い。


写真を撮る人。


お参りする人。


願い事を書く人。


私たちも賽銭箱の前へ立った。


手を合わせる。


目を閉じる。


願い事は一つだった。


兄さんが元気になりますように。


ただそれだけ。


それだけだった。


     ◇◇◇◇


帰り道。


夕方になっていた。


提灯に灯りが入る。


参道が少しずつオレンジ色に染まっていく。


綺麗だった。


「また来たいな」


秋帆さんが言う。


「来年もな」


兄さんが答える。


その言葉に。


私は少しだけ胸が痛くなった。


来年。


その言葉が。


今の私には特別に聞こえてしまう。


     ◇◇◇◇


「どうした?」


兄さんが聞く。


私は慌てて首を振った。


「何でもありません」


笑う。


ちゃんと笑う。


兄さんに心配を掛けたくなかった。


せっかく楽しい日なのだから。


今日は。


悲しい顔なんてしたくなかった。


     ◇◇◇◇


帰り際。


参道の入口で立ち止まる。


祭りの音が聞こえる。


人々の笑い声。


屋台の呼び込み。


子供たちのはしゃぐ声。


どれも温かかった。


兄さんも笑っていた。


奈津実さんも。


秋帆さんも。


私も。


そんな当たり前の景色を見ながら思う。


奇跡なんて信じていない。


だけど。


もし願いが届くなら。


この日々(きせつ)を失いたくなかった。


この未来(あした)を守りたかった。


どれだけ理想(ゆめ)みたいな話だとしても。


どれだけ希望(ゆめ)に縋ることになったとしても。


私は願ってしまう。


兄さんと一緒に。


来年のお祭りも見たいと。


     ◇◇◇◇


夜空には星が輝いていた。


五月の風が吹く。


優しい風だった。


まるで。


誰かが背中を押してくれるみたいに。


静かに。


穏やかに。


そして少しだけ切なく。


――第九話「Andantino ~雨音の向こう側~」へ続く。

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