第七話 ― Scherzo ~約束のゴールデンウィーク~ ―
ゴールデンウィーク初日。
朝からよく晴れていた。
窓の外には青空が広がっている。
絶好のお出掛け日和。
――のはずだった。
だけど私は机に向かっていた。
数学。
英語。
現代文。
参考書が何冊も積まれている。
理由は単純だった。
中間試験が近いから。
委員長として恥ずかしい成績は取れない。
そう思っていた。
本来なら。
一人で勉強していたと思う。
けれど今日は違った。
「お邪魔しまーす」
玄関から聞こえた声に顔を上げる。
奈津実さんだった。
その後ろには裕亮くん。
そして陽香ちゃんもいる。
今日は私の家で勉強会をする約束になっていた。
◇◇◇◇
「秋帆の家、広っ!」
リビングへ入った奈津実さんが最初に叫んだ。
「普通だよ」
「普通じゃないって」
「そうですか?」
「そうだよ」
私は苦笑した。
昔からそうだった。
自分の家のことはよく分からない。
住んでいる本人にとっては当たり前だから。
「お世話になります」
陽香ちゃんが丁寧に頭を下げる。
「気にしないで」
「兄さんも何か言ってください」
「お邪魔します」
「遅いです」
「厳しいな」
裕亮くんが笑う。
その様子を見ていると。
自然と私も笑顔になった。
◇◇◇◇
勉強会は思った以上に順調だった。
少なくとも最初の一時間は。
「分からん」
裕亮くんがシャーペンを置く。
「早いよ」
私は思わず言った。
「だって難しい」
「まだ二問目」
「もう二問目」
「駄目です」
「委員長が鬼だ」
「鬼じゃありません」
奈津実さんが吹き出した。
「確かに今の秋帆、先生みたいだった」
「そんなことないよ」
「いやあった」
二人が笑う。
私も少し照れた。
こんな時間は初めてだった。
学校とは違う。
教室とも違う。
だけど心地良かった。
◇◇◇◇
昼食を挟み。
午後になる。
勉強にも疲れが出始めていた。
奈津実さんは机に突っ伏している。
「もう無理」
「まだ一時間しか経ってない」
「委員長は化け物?」
「違います」
「じゃあ勉強の妖精」
「それも違う」
陽香ちゃんが笑った。
その時だった。
リビングの隅に置かれているピアノへ裕亮くんの視線が向く。
黒いアップライトピアノ。
幼い頃から家にあるものだ。
「秋帆ってピアノ弾くんだ」
「少しだけ」
「へえ」
裕亮くんが近付く。
鍵盤を見つめる。
その横顔が。
どこか懐かしそうだった。
◇◇◇◇
「弾いてみる?」
気付けばそう言っていた。
裕亮くんは少し驚いた顔をする。
「いいの?」
「もちろん」
私は椅子から立ち上がった。
裕亮くんがピアノの前へ座る。
奈津実さんも顔を上げる。
陽香ちゃんも振り返った。
部屋の空気が少し変わる。
静かになる。
裕亮くんは鍵盤に指を置いた。
そして。
ゆっくりと弾き始めた。
◇◇◇◇
流れ出した旋律。
柔らかく。
どこか懐かしい音色。
私は曲名を知っていた。
『アルルの女』。
正確には第二組曲のメヌエット。
中学校の音楽室で聴いたことがある。
だけど。
こんなにも綺麗な曲だっただろうか。
窓から春風が吹く。
白いカーテンが揺れる。
午後の陽射しが差し込む。
その中で。
音だけが静かに流れていく。
裕亮くんの指は滑らかだった。
迷いがない。
自然だった。
まるで呼吸をするみたいに。
◇◇◇◇
私は思わず見惚れていた。
学校では見られない顔だった。
いつもは少し面倒くさそうで。
どこか気怠そうで。
普通が好きだと言う人。
だけど。
今だけは違う。
音楽の中にいる。
そんな気がした。
「すごい……」
陽香ちゃんが呟く。
奈津実さんも黙って聴いている。
誰も喋らない。
ただ。
音楽だけが部屋を満たしていた。
◇◇◇◇
曲が終わる。
最後の音が消える。
静寂。
数秒後。
最初に拍手したのは奈津実さんだった。
「うまっ」
「普通だろ」
「普通じゃない」
陽香ちゃんも頷く。
「兄さん、久しぶりですよね」
「まあな」
裕亮くんは少し照れたように笑った。
その笑顔が眩しかった。
「文化祭でも弾けばいいのに」
私が言う。
裕亮くんは肩をすくめる。
「人前は苦手」
「もったいない」
「よく言われる」
奈津実さんが笑った。
「アタシもそう思う」
「二対一か」
「全員一致です」
陽香ちゃんまで加わる。
そのやり取りがおかしくて。
みんな笑った。
◇◇◇◇
夕方。
勉強会は解散になった。
玄関まで見送る。
西日が差し込んでいる。
「今日はありがとう」
裕亮くんが言う。
「こちらこそ」
「楽しかったです」
陽香ちゃんも頭を下げる。
奈津実さんは、
「次は外で遊ぼう」
と言って笑った。
そんな何気ない会話。
何気ない約束。
だけど。
私は少しだけ願ってしまう。
こんな時間が続けばいいのにと。
◇◇◇◇
人は理想を描く。
叶うかどうかも分からないのに。
それでも願う。
今日みたいな日が続いてほしいと。
笑い合える日々が続いてほしいと。
私も同じだった。
窓から見える夕焼けを眺める。
春の終わりが近付いている。
ゴールデンウィークは始まったばかり。
だけど。
どこか胸騒ぎがした。
理由は分からない。
ただ。
幸せな時間ほど儚いものだと。
そんなことを思ってしまった。
夕暮れの空は優しかった。
まるで。
さっきまで流れていた旋律の余韻みたいに。
静かで。
温かくて。
少しだけ切なかった。
――第八話「Dolce ~五月の風と約束~」へ続く。




