第六話 ― Allegretto ~戻ってきた教室~ ―
春の朝は、どこか優しい。
窓を開けると、少し冷たい風が頬を撫でていく。
遠くで聞こえる鳥の鳴き声。
青い空。
柔らかな陽射し。
そんな何気ない景色を見ながら、私は制服のリボンを整えた。
今日は少しだけ特別な日だった。
裕亮くんが学校へ戻ってくる。
たった二週間。
長いようで短い時間。
けれど私たちにとっては、とても長く感じられた二週間だった。
◇◇◇◇
教室へ入る。
まだ朝早い時間だった。
クラスメイトも数人しか来ていない。
私は窓際の席を見る。
そこは空席だった。
当たり前だ。
まだ登校時間前なのだから。
それでも。
無意識に探してしまう。
そのことに気付いて、自分で少し苦笑した。
「おはよう、委員長」
声を掛けられる。
振り返ると奈津実さんだった。
「おはよう」
「今日は早いね」
「いつも通りだよ」
「真面目だなあ」
奈津実さんは笑う。
だけど。
その笑顔の奥にあるものを私は知っていた。
病院で。
あの日。
私たちは同じ話を聞いている。
だからこそ。
こうして笑うことがどれだけ難しいかも知っていた。
◇◇◇◇
始業チャイムの少し前。
教室の扉が開いた。
何人かの生徒が振り返る。
そして。
「おっ、相楽!」
「退院したのか!」
「大丈夫なのか?」
一気に教室が騒がしくなった。
私は思わず顔を上げる。
そこにいたのは。
見慣れた制服姿の少年だった。
「騒ぎすぎだろ」
苦笑しながら言う。
いつもの声。
いつもの表情。
いつもの裕亮くん。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
良かった。
本当に。
良かった。
それが最初に浮かんだ言葉だった。
◇◇◇◇
ホームルーム。
担任の話。
配布物。
連絡事項。
いつもと同じ朝。
だけど。
私の視線は何度も裕亮くんの方へ向いてしまう。
本人は普通にしている。
友達と話して。
笑って。
冗談を言っている。
病院で見た時と何も変わらない。
だけど。
知っている。
本当は変わってしまったことを。
私たちだけが。
知っている。
◇◇◇◇
二時間目。
移動教室だった。
階段を上る。
その時だった。
ふらり。
ほんの一瞬だけ。
裕亮くんの身体が揺れた。
誰も気付かないくらい小さな動き。
だけど。
私は見てしまった。
「裕亮くん」
思わず声を掛ける。
「ん?」
「大丈夫?」
「何が?」
本人は本気で分かっていない顔をしていた。
私は少し迷う。
言うべきか。
言わないべきか。
結局。
「何でもない」
そう答えた。
裕亮くんは首を傾げたあと、
「変な委員長」
と笑った。
その笑顔を見て。
胸が少し痛くなる。
◇◇◇◇
昼休み。
窓際の席でお弁当を食べる。
奈津実さん。
裕亮くん。
そして私。
珍しい組み合わせだった。
「病院どうだった?」
私が聞く。
「暇だった」
即答だった。
「それしか言わないよね」
奈津実さんが呆れる。
「事実だし」
「検査とか大変だったでしょ」
「まあ」
そう言いながらも。
裕亮くんはどこか他人事みたいだった。
病気について話したがらない。
いや。
正確には。
考えないようにしている。
そんな気がした。
「ゴールデンウィークどうするの?」
奈津実さんが話題を変える。
「寝る」
「却下」
「なんでだよ」
「せっかくなんだから出掛けようよ」
「面倒」
「出た」
私は思わず笑った。
本当に。
この二人のやり取りは変わらない。
ずっと昔からこうだったのだろう。
そう思うと少し羨ましかった。
◇◇◇◇
放課後。
委員会の仕事を終えて教室へ戻る。
窓の外は夕暮れだった。
教室には誰もいない。
そう思った。
だけど。
一人だけ残っていた。
裕亮くんだった。
窓際の席に座っている。
夕陽が横顔を照らしていた。
「まだ帰ってなかったの?」
私が聞く。
裕亮くんは振り返る。
「ああ」
「何してるの?」
「別に」
そう言いながら窓の外を見る。
私も隣へ立った。
グラウンドでは運動部が練習している。
吹奏楽部の音も聞こえてくる。
穏やかな放課後だった。
「好きなんだ」
裕亮くんが呟く。
「え?」
「こういう時間」
少しだけ笑う。
「何も起きない時間」
私は黙って聞いていた。
「みんながいてさ」
「うん」
「普通に授業受けて」
「うん」
「放課後になって」
「うん」
「帰るだけ」
裕亮くんは窓の外を見る。
どこか遠くを見るような目だった。
「それが一番好きかも」
その言葉に。
私は返事ができなかった。
なぜなら。
その普通が。
どれほど大切なものなのか。
今の私たちは知っているから。
◇◇◇◇
帰り道。
一人で歩く。
夕陽が沈みかけていた。
今日のことを思い出す。
裕亮くんの笑顔。
奈津実さんの笑顔。
陽香ちゃんの笑顔。
みんな笑っていた。
だけど。
その裏側にあるものも知っている。
不安。
恐怖。
悲しみ。
言葉にできない感情。
それでも。
みんな前を向こうとしている。
だから私も。
前を向かなければいけない。
◇◇◇◇
人の体温は不思議だと思う。
触れたわけじゃない。
抱き締められたわけでもない。
それなのに。
誰かがいるだけで温かくなる。
安心できる。
勇気をもらえる。
裕亮くんはきっと気付いていない。
自分がどれだけ周りを支えているのか。
どれだけ大切に思われているのか。
本人はきっと。
普通が好きなだけなのだろう。
だけど。
その普通に救われている人がいる。
私もその一人だった。
◇◇◇◇
四月は終わろうとしていた。
もうすぐゴールデンウィーク。
少し長い休みが始まる。
誰も知らない。
これから訪れる出来事を。
少しずつ変わり始める日々を。
そして。
まだ誰も知らない。
その休みが終わる頃。
裕亮くんたちの運命が。
再び大きく動き始めることを。
夕暮れの空はどこまでも赤かった。
まるで。
静かに奏でられる前奏曲のように。
――第七話「Scherzo ~約束のゴールデンウィーク~」へ続く。




