第九話 ― Andantino ~雨音の向こう側~ ―
ゴールデンウィークも中盤に差し掛かっていた。
連休特有のゆるやかな時間の流れ。
朝なのか昼なのか曖昧な空気。
そんな中で、私たちは郊外のショッピングモールへ来ていた。
目的は買い物。
そして――夏に向けての準備。
「水着買うって、なんか恥ずかしくない?」
奈津実さんが小声で言う。
「恥ずかしくはないよ」
私は即答する。
「いやいやいや、普通に恥ずいでしょ」
「そうですか?」
「そうだよ」
隣で裕亮くんが欠伸をしていた。
「眠い」
「朝からそれ?」
「休日は寝る日だろ」
「ダメ人間発言」
「ひどいな」
陽香ちゃんは少しだけ笑っていた。
こうしてみんなで出掛けるのは久しぶりだった。
病院から戻ってきてから。
日常は戻りつつある。
だけど。
完全には戻っていない。
それは誰もが分かっていた。
◇◇◇◇
ショッピングモールの中は明るかった。
天井が高くて。
冷房が効いていて。
外の暑さが嘘みたいだった。
人も多い。
家族連れ。
カップル。
学生グループ。
それぞれが休日を楽しんでいる。
「まずは水着売り場だな」
奈津実さんが先頭を歩く。
「勝手に決めるんだ」
「目的それだし」
「まあそうだけど」
私は少しだけ緊張していた。
水着売り場。
普段あまり行かない場所。
それに――
「秋帆」
呼ばれて振り返る。
裕亮くんが立っていた。
「何?」
「これでいいのか?」
「え?」
彼が持っていたのは特売のTシャツだった。
「違います」
「即答かよ」
「違います」
「だよな」
そんなやり取りに奈津実さんが笑う。
「完全におっさんの買い物じゃん」
「ひどい」
でも。
こういう何気ないやり取りが心地よかった。
◇◇◇◇
水着売り場は少し別世界だった。
明るい照明。
カラフルな布。
デザインの多い商品棚。
一瞬だけ空気が変わる。
「うわ……」
奈津実さんが固まる。
「どうしたの?」
「いや、なんか眩しい」
「何それ」
私は少し笑った。
陽香ちゃんは真剣に棚を見ている。
「夏休みの海水浴、楽しみですね」
「うん」
素直な言葉だった。
その言葉に少しだけ救われる。
夏。
まだ先の話。
でも確かに存在している未来。
◇◇◇◇
試着室の前。
それぞれが水着を選んでいた。
「委員長はどんなのにするの?」
奈津実さんが聞く。
「普通の」
「ざっくり」
「シンプルなやつ」
「委員長っぽい」
私は少し迷ったあと、水着を選んだ。
派手ではない。
落ち着いた色。
それを持って試着室へ入る。
◇◇◇◇
鏡の前に立つ。
少しだけ違和感がある。
当たり前だ。
制服ではないから。
「……うん」
小さく呟く。
悪くない。
そう思った。
でもすぐにドアを開ける勇気は出なかった。
外から声が聞こえる。
「秋帆ー?大丈夫ー?」
奈津実さんの声。
「大丈夫です」
返事をする。
◇◇◇◇
試着室を出ると。
三人がこちらを見ていた。
「おお」
「いいじゃん」
「似合ってます」
それぞれの反応。
少しだけ恥ずかしくなる。
「どうかな」
思わず聞いてしまう。
自分でも珍しいと思った。
奈津実さんが親指を立てる。
「合格」
「何の試験?」
「夏の準備」
「意味が分からない」
裕亮くんも頷いていた。
「普通にいいと思う」
その言葉に。
少しだけ胸が温かくなる。
◇◇◇◇
その後も店内を回った。
サンダル。
タオル。
日焼け止め。
必要なものを次々に見ていく。
途中でフードコートに寄った。
「疲れた」
裕亮くんが椅子に座る。
「まだ半分」
「嘘だろ」
「本当です」
陽香ちゃんが笑う。
「兄さん、体力ないですね」
「お前もな」
「わたしはあります」
「どこから来る自信だよ」
そんな会話が続く。
私はその光景を見ていた。
笑っている。
ちゃんと。
みんな笑っている。
だけど。
心のどこかで思う。
この時間はいつまで続くのだろう、と。
◇◇◇◇
帰り際。
夕方になっていた。
モールの外に出ると、少しだけ涼しい風が吹いていた。
「今日はありがと」
奈津実さんが言う。
「こちらこそ」
裕亮くんが答える。
「夏、楽しみだな」
その言葉に。
私は少しだけ息を呑んだ。
夏。
その単語が胸に刺さる。
まだ先のことなのに。
遠い未来なのに。
どうしてこんなに重く感じるのだろう。
◇◇◇◇
帰り道。
電車の窓から外を見る。
夕焼けが広がっていた。
裕亮くんは隣で眠っている。
少しだけ体を預けるように。
その寝顔を見て思う。
この人は本当に普通だ。
特別じゃない。
だからこそ。
失いたくない。
そんな感情が胸に広がる。
◇◇◇◇
人は未来を信じる。
信じたいから。
信じるしかないから。
夏休みも。
海も。
水着も。
全部その延長にあるものだと思っていた。
でも私は知っている。
その未来が必ず来るとは限らないことを。
それでも。
信じてしまう。
信じたいと願ってしまう。
裕亮くんと見る海を。
みんなで笑う夏を。
◇◇◇◇
電車が揺れる。
外はもう夜だった。
静かな時間。
揺れる車内。
眠る横顔。
そして。
まだ言葉にできない不安。
それでも。
私は目を閉じる。
今だけは。
この穏やかな時間を覚えていたかった。
◇◇◇◇
そして夜。
第十話「Intermezzo ~静寂の前奏~」へ続く。




