↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/24

第九話 ― Andantino ~雨音の向こう側~ ―

ゴールデンウィークも中盤に差し掛かっていた。


連休特有のゆるやかな時間の流れ。


朝なのか昼なのか曖昧な空気。


そんな中で、私たちは郊外のショッピングモールへ来ていた。


目的は買い物。


そして――夏に向けての準備。


「水着買うって、なんか恥ずかしくない?」


奈津実さんが小声で言う。


「恥ずかしくはないよ」


私は即答する。


「いやいやいや、普通に恥ずいでしょ」


「そうですか?」


「そうだよ」


隣で裕亮くんが欠伸をしていた。


「眠い」


「朝からそれ?」


「休日は寝る日だろ」


「ダメ人間発言」


「ひどいな」


陽香ちゃんは少しだけ笑っていた。


こうしてみんなで出掛けるのは久しぶりだった。


病院から戻ってきてから。


日常は戻りつつある。


だけど。


完全には戻っていない。


それは誰もが分かっていた。


     ◇◇◇◇


ショッピングモールの中は明るかった。


天井が高くて。


冷房が効いていて。


外の暑さが嘘みたいだった。


人も多い。


家族連れ。


カップル。


学生グループ。


それぞれが休日を楽しんでいる。


「まずは水着売り場だな」


奈津実さんが先頭を歩く。


「勝手に決めるんだ」


「目的それだし」


「まあそうだけど」


私は少しだけ緊張していた。


水着売り場。


普段あまり行かない場所。


それに――


「秋帆」


呼ばれて振り返る。


裕亮くんが立っていた。


「何?」


「これでいいのか?」


「え?」


彼が持っていたのは特売のTシャツだった。


「違います」


「即答かよ」


「違います」


「だよな」


そんなやり取りに奈津実さんが笑う。


「完全におっさんの買い物じゃん」


「ひどい」


でも。


こういう何気ないやり取りが心地よかった。


     ◇◇◇◇


水着売り場は少し別世界だった。


明るい照明。


カラフルな布。


デザインの多い商品棚。


一瞬だけ空気が変わる。


「うわ……」


奈津実さんが固まる。


「どうしたの?」


「いや、なんか眩しい」


「何それ」


私は少し笑った。


陽香ちゃんは真剣に棚を見ている。


「夏休みの海水浴、楽しみですね」


「うん」


素直な言葉だった。


その言葉に少しだけ救われる。


夏。


まだ先の話。


でも確かに存在している未来。


     ◇◇◇◇


試着室の前。


それぞれが水着を選んでいた。


「委員長はどんなのにするの?」


奈津実さんが聞く。


「普通の」


「ざっくり」


「シンプルなやつ」


「委員長っぽい」


私は少し迷ったあと、水着を選んだ。


派手ではない。


落ち着いた色。


それを持って試着室へ入る。


     ◇◇◇◇


鏡の前に立つ。


少しだけ違和感がある。


当たり前だ。


制服ではないから。


「……うん」


小さく呟く。


悪くない。


そう思った。


でもすぐにドアを開ける勇気は出なかった。


外から声が聞こえる。


「秋帆ー?大丈夫ー?」


奈津実さんの声。


「大丈夫です」


返事をする。


     ◇◇◇◇


試着室を出ると。


三人がこちらを見ていた。


「おお」


「いいじゃん」


「似合ってます」


それぞれの反応。


少しだけ恥ずかしくなる。


「どうかな」


思わず聞いてしまう。


自分でも珍しいと思った。


奈津実さんが親指を立てる。


「合格」


「何の試験?」


「夏の準備」


「意味が分からない」


裕亮くんも頷いていた。


「普通にいいと思う」


その言葉に。


少しだけ胸が温かくなる。


     ◇◇◇◇


その後も店内を回った。


サンダル。


タオル。


日焼け止め。


必要なものを次々に見ていく。


途中でフードコートに寄った。


「疲れた」


裕亮くんが椅子に座る。


「まだ半分」


「嘘だろ」


「本当です」


陽香ちゃんが笑う。


「兄さん、体力ないですね」


「お前もな」


「わたしはあります」


「どこから来る自信だよ」


そんな会話が続く。


私はその光景を見ていた。


笑っている。


ちゃんと。


みんな笑っている。


だけど。


心のどこかで思う。


この時間はいつまで続くのだろう、と。


     ◇◇◇◇


帰り際。


夕方になっていた。


モールの外に出ると、少しだけ涼しい風が吹いていた。


「今日はありがと」


奈津実さんが言う。


「こちらこそ」


裕亮くんが答える。


「夏、楽しみだな」


その言葉に。


私は少しだけ息を呑んだ。


夏。


その単語が胸に刺さる。


まだ先のことなのに。


遠い未来なのに。


どうしてこんなに重く感じるのだろう。


     ◇◇◇◇


帰り道。


電車の窓から外を見る。


夕焼けが広がっていた。


裕亮くんは隣で眠っている。


少しだけ体を預けるように。


その寝顔を見て思う。


この人は本当に普通だ。


特別じゃない。


だからこそ。


失いたくない。


そんな感情が胸に広がる。


     ◇◇◇◇


人は未来を信じる。


信じたいから。


信じるしかないから。


夏休みも。


海も。


水着も。


全部その延長にあるものだと思っていた。


でも私は知っている。


その未来が必ず来るとは限らないことを。


それでも。


信じてしまう。


信じたいと願ってしまう。


裕亮くんと見る海を。


みんなで笑う夏を。


     ◇◇◇◇


電車が揺れる。


外はもう夜だった。


静かな時間。


揺れる車内。


眠る横顔。


そして。


まだ言葉にできない不安。


それでも。


私は目を閉じる。


今だけは。


この穏やかな時間を覚えていたかった。


     ◇◇◇◇


そして夜。


第十話「Intermezzo ~静寂の前奏~」へ続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。