第三話 ― Cantabile ~隠された真実~ ―
雨だった。
朝から空は厚い雲に覆われていた。
病室の窓を叩く雨音が、静かに響いている。
ザーッという音を聞いていると、不思議と時間の流れが遅く感じられた。
学校なら今頃は一時間目だろうか。
教室の窓から見えるグラウンドも、きっとこんなふうに雨に煙っているはずだ。
俺はベッドの上でぼんやりと天井を見上げた。
退屈だった。
それが正直な感想だった。
入院生活なんてもっと大変なものだと思っていた。
けれど実際は違う。
検査を受けて。
薬を飲んで。
あとはひたすら時間が過ぎるのを待つだけ。
何もすることがない。
だから余計なことばかり考えてしまう。
「暇だな……」
呟く。
返事をする人はいない。
当然だ。
個室ではないが、今の時間は同室の患者も検査に行っているらしい。
俺一人だった。
そんな時だった。
病室の扉が開く。
「兄さん」
陽香だった。
今日は傘を持っている。
制服の袖が少し濡れていた。
「雨の中ご苦労さん」
「お見舞いに来ただけです」
「毎日来なくてもいいのに」
「来たいんです」
少しだけ強い口調だった。
俺は思わず苦笑する。
相変わらず頑固だ。
陽香は椅子に腰掛ける。
その顔を見て。
俺は違和感を覚えた。
笑っている。
ちゃんと笑っている。
だけど。
その笑顔の奥に何かがある。
隠している何かが。
「どうした?」
「え?」
「何かあったか?」
陽香は一瞬だけ目を見開いた。
すぐに首を横へ振る。
「何もありません」
「そうか?」
「そうです」
言葉は自然だった。
だけど。
なぜだろう。
妙に引っかかった。
◇◇◇◇
昼過ぎ。
担当医から呼び出された。
診察室。
白い机。
白い壁。
白衣。
どこまでも無機質な空間だった。
医師はカルテをめくりながら言う。
「体調はどうですか」
「暇です」
思わずそう答えた。
医師は少しだけ笑った。
「それは良かった」
「良くないですよ」
「そうですか?」
「学校にも行けないし」
「友達には会えているでしょう」
「まあ」
確かに。
奈津実も陽香も毎日のように来ている。
秋帆も二回ほど顔を見せてくれた。
だから完全に孤独というわけではない。
「相楽くん」
医師が真面目な顔になる。
「少し聞きたいことがあります」
「はい」
「以前から胸の痛みは?」
「ありました」
「いつ頃からですか」
「去年の冬くらい」
医師の表情が変わった。
「息切れは?」
「たまに」
「疲れやすさは?」
「最近は結構」
質問が続く。
俺は正直に答えた。
答えるたびに。
医師の顔は少しずつ曇っていく。
それが気になった。
「先生」
「はい」
「そんなにヤバいんですか?」
沈黙。
ほんの数秒。
だけど妙に長く感じた。
「今は検査結果を整理している段階です」
結局返ってきたのはそれだけだった。
俺は小さく息を吐く。
やっぱり何かがおかしい。
◇◇◇◇
その日の夕方。
奈津実が来た。
コンビニ袋を提げている。
「差し入れ」
「何?」
「プリン」
「子供扱いか」
「病人扱い」
「変わらねえよ」
奈津実が笑う。
俺も笑う。
だけど。
その笑顔は長く続かなかった。
「ヒロ」
「ん?」
「もしさ」
奈津実が窓の外を見る。
雨はまだ降り続いている。
「もし、何かやりたいことがあったらどうする?」
「急だな」
「いいから」
やりたいこと。
考える。
だけど。
すぐには思いつかなかった。
俺は特別な人間じゃない。
夢もない。
大志もない。
「別に」
「別に?」
「普通でいい」
奈津実は黙った。
俺は続ける。
「学校行って」
「うん」
「卒業して」
「うん」
「たまにみんなで集まって」
「うん」
「それで十分かな」
それが本音だった。
世界を変えたいわけじゃない。
有名になりたいわけでもない。
ただ。
今の毎日が続けばいい。
本当に。
それだけだった。
奈津実は俯く。
長い前髪で表情が見えなかった。
「ヒロらしいね」
小さな声だった。
◇◇◇◇
夜。
奈津実が帰った後。
病室の窓から雨上がりの空が見えた。
雲の切れ間。
そこから夕陽が差し込んでいる。
綺麗だった。
まるで世界が輝いて見える。
その景色を眺めながら。
ふと思う。
俺は本当に退院できるのだろうか。
今さらそんなことを考えた。
今までは考えないようにしていた。
だけど。
陽香の様子。
奈津実の様子。
秋帆の様子。
みんな何かを隠している。
そんな気がしてならない。
「考えすぎか……」
そう呟く。
だが。
胸の奥に残った違和感は消えなかった。
◇◇◇◇
同じ頃。
病院の屋上。
奈津実と陽香は並んで立っていた。
雨上がりの風が吹いている。
冷たい風だった。
「限界」
奈津実が言った。
「え?」
「アタシもう限界」
震える声。
陽香は黙る。
「ヒロの前で笑うの」
奈津実は唇を噛み締めた。
「無理だよ……」
涙が零れる。
何度目か分からない涙だった。
病名を聞いた日から。
何度泣いたか分からない。
「なんでヒロなの」
答えはない。
誰も答えてくれない。
陽香も同じだった。
拳を握る。
爪が食い込むほど強く。
「兄さんは」
小さく呟く。
「まだ何も知らないのに」
雨上がりの空は綺麗だった。
残酷なくらい綺麗だった。
だから余計に辛かった。
◇◇◇◇
人は時として。
現実を知らないから笑える。
知らないから。
前を向ける。
知らないから。
希望を抱ける。
だけど。
本当の現実はいつか必ず追いついてくる。
逃げられない。
目を背けられない。
残酷な真実として。
静かに。
確実に。
その足音を響かせながら。
そして。
その日は少しずつ近づいていた。
裕亮が。
自らの運命を知る日が。
――第四話「Adagio ~告知の日~」へ続く。




