第二話 ― Moderato ~帰れない放課後~ ―
病院の朝は早い。
まだ眠気の残る頭で目を開けると、窓の外には薄曇りの空が広がっていた。
いつもなら今頃は登校中だ。
校門前で奈津実と顔を合わせて。
教室へ向かって。
始業のチャイムを聞く。
そんな当たり前の一日が始まっているはずだった。
だけど今の俺は病室のベッドの上にいる。
たったそれだけの違いなのに。
まるで別の世界にいるみたいだった。
「兄さん、おはようございます」
病室の扉が開く。
制服姿の陽香だった。
手にはコンビニの袋。
その中から紙パックのジュースを取り出す。
「朝から来たのか」
「来ちゃ駄目ですか?」
「いや、そうじゃなくて」
「だったらいいです」
そう言って微笑む。
だけど。
どこか無理をしているようにも見えた。
気のせいだろうか。
「学校は?」
「これからです」
「遅刻するなよ」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺?」
「兄さんです」
即答だった。
思わず苦笑する。
いつもの陽香だ。
少し口うるさくて。
面倒見が良くて。
時々生意気な妹。
そのはずなのに。
なぜだろう。
今日は妙に元気がない気がした。
◇◇◇◇
午前中は検査だった。
採血。
心電図。
CT。
名前も分からない機械。
医師や看護師が慌ただしく動いている。
正直なところ。
大げさじゃないかと思った。
倒れたのは事実だ。
でもそれだけだ。
少し休めば治る。
そう信じていた。
信じたかった。
「相楽くん」
担当医がカルテを閉じる。
「検査結果が揃うまで、しばらく入院してください」
「そんなにですか?」
「念のためです」
念のため。
便利な言葉だと思う。
それ以上は何も教えてくれない。
俺は小さく息を吐いた。
「学校行きたかったんだけどな」
「焦らなくて大丈夫ですよ」
医師はそう言った。
けれど。
その表情は少しだけ曇って見えた。
◇◇◇◇
午後になると奈津実がやって来た。
病室の扉を勢いよく開ける。
「ヒロ!」
「うるせえ」
「生きてた!」
「勝手に殺すな」
「だって昨日マジでビビったんだから!」
奈津実は椅子を引き寄せて座る。
いつも通りだった。
騒がしくて。
遠慮がなくて。
だけど。
どこか違う。
目元が少し赤かった。
寝不足なのかもしれない。
「クラスのみんな心配してたぞ」
「悪いな」
「秋帆なんて泣きそうだったし」
「委員長が?」
「うん」
それは少し意外だった。
秋帆はしっかりしている。
感情を表に出すタイプじゃない。
そんな人まで心配させたのかと思うと申し訳なくなる。
「早く戻らないとな」
俺が言う。
奈津実は一瞬だけ黙った。
「……そうだね」
笑う。
だけど。
その笑顔は少しだけぎこちなかった。
◇◇◇◇
夕方。
奈津実が帰った後。
俺は窓際に立っていた。
病院の中庭が見える。
小さな花壇。
ベンチ。
散歩をする患者たち。
どこにでもある風景。
だけど。
なぜか胸が苦しくなった。
息が詰まる。
身体の奥が重い。
「何なんだよ……」
独り言が漏れる。
こんなことは初めてだった。
俺は昔から丈夫だった。
多少の無茶なら平気だった。
それなのに。
今は階段を上るだけでも疲れる。
走ることもできない。
身体が自分のものじゃないみたいだった。
窓ガラスに映る自分を見る。
そこには少しやつれた少年がいた。
「情けねえな」
思わず笑う。
だけど。
笑った顔は思った以上に弱々しかった。
◇◇◇◇
夜。
病室の明かりが落ちる。
静寂。
遠くで聞こえるナースステーションの声。
俺は眠れなかった。
目を閉じる。
すると色々なことを考えてしまう。
学校。
文化祭。
ピアノ。
奈津実。
陽香。
秋帆。
そして。
これからのこと。
未来なんて考えたことがなかった。
明日は来るものだと思っていたから。
だけど今は違う。
少しだけ怖かった。
もし。
このまま学校へ戻れなかったら。
もし。
文化祭に参加できなかったら。
そんな考えが頭をよぎる。
慌てて打ち消す。
馬鹿らしい。
考えすぎだ。
そのうち退院できる。
また元の日常へ戻れる。
そう。
これは少し長い休暇みたいなものだ。
きっと。
そうに違いない。
◇◇◇◇
人は時々。
現実よりも理想を信じたくなる。
叶う保証なんてなくても。
根拠なんてなくても。
それでも。
そうであってほしいと願う。
それが人間だから。
俺も同じだった。
病気なんて大したことない。
すぐに治る。
またみんなと笑える。
そんな希望を信じていた。
信じたかった。
◇◇◇◇
病室の時計が静かに時を刻む。
秒針の音だけが響いていた。
カチ。
カチ。
カチ。
その音はまるで。
誰にも聞こえない旋律みたいだった。
少しずつ。
少しずつ。
終わりへ近づいていく音。
けれど。
まだ誰も知らない。
俺自身でさえも。
本当の現実を。
知らなかった。
――第三話「Cantabile ~隠された真実~」へ続く。




