第一話 ― Andante ~告げられた旋律~ ―
夢を見ていた気がする。
桜が舞っていた。
春の空の下。
誰かが笑っていた。
だけど、その顔だけはどうしても思い出せない。
遠ざかる。
少しずつ。
音も。
景色も。
何もかもが。
やがて。
白い光だけが残った。
◇◇◇◇
目を開ける。
真っ白な天井が見えた。
知らない天井だった。
消毒液の匂い。
機械の電子音。
カーテン越しに差し込む夕陽。
そこでようやく気付く。
病院だ。
「……あれ」
喉が渇いていた。
身体も妙に重い。
起き上がろうとして、すぐに諦める。
力が入らなかった。
「裕亮くん」
聞き慣れた声がした。
視線を向ける。
ベッドの横には倉沢秋帆が立っていた。
制服姿のまま。
心配そうな顔をしている。
「秋帆?」
「良かった……」
秋帆はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「突然倒れたから」
「俺、倒れたのか」
「覚えてないの?」
「途中から全然」
正直、自分でも驚いていた。
確か授業中だったはずだ。
そこまでは覚えている。
だけどその先がない。
まるで記憶が切り取られたみたいだった。
「奈津実は?」
そう尋ねると、秋帆は少しだけ視線を逸らした。
「高野さんなら、さっきまでいたよ」
「さっきまで?」
「先生に呼ばれて」
何だか歯切れが悪い。
その反応が少し気になった。
「大げさだな」
冗談のつもりで言う。
だが秋帆は笑わなかった。
「みんな心配したんだよ」
「悪い悪い」
「そういうところ」
「え?」
「無理するところ」
秋帆は少し怒ったような顔をした。
珍しい。
普段は温厚な人間だ。
だからこそ余計に意外だった。
「最近、顔色も良くなかったし」
「そうだったか?」
「そうだったよ」
即答だった。
俺は苦笑する。
自覚はなかった。
多少疲れているくらいの感覚だったからだ。
「とりあえず検査だって」
「検査?」
「うん」
そこで会話が途切れた。
秋帆は何か言いたそうだった。
けれど結局何も言わなかった。
◇◇◇◇
同じ頃。
診察室。
奈津実と陽香は椅子に座っていた。
向かい側には担当医。
机の上には何枚もの検査結果。
部屋の空気は重かった。
異様なほどに。
「先生」
陽香が小さな声で言う。
「兄さんは……」
その続きを言えない。
医師は静かに息を吐いた。
そして言う。
「まず、落ち着いて聞いてください」
奈津実は拳を握った。
嫌な予感がしていた。
病院へ運ばれてからずっと。
胸の奥で鳴り続けていた警鐘。
それが現実になろうとしている。
「現在の状態ですが――」
医師の説明が始まる。
聞き慣れない専門用語。
難しい検査結果。
だけど。
最後の一言だけは。
二人にも理解できた。
陽香の肩が震える。
奈津実は唇を噛み締めた。
言葉が出なかった。
出せなかった。
あまりにも突然だったから。
あまりにも残酷だったから。
◇◇◇◇
病室へ戻る途中。
陽香は涙を堪えていた。
泣いてはいけない。
そう思った。
泣いたら。
認めてしまう気がした。
兄の現実を。
「陽香」
奈津実が声をかける。
「……うん」
「ヒロにはまだ言うなってさ」
「分かってる」
「言えるわけないよね」
その声は震えていた。
奈津実も必死だった。
陽香は知っている。
幼い頃から。
奈津実がどれだけ裕亮を大切に思ってきたのか。
全部知っている。
だからこそ辛かった。
二人とも。
まだ高校生なのだ。
こんな現実を受け止めるには若すぎた。
◇◇◇◇
病室の窓から夕焼けが見えた。
赤い光が街を染めている。
俺はその景色を眺めていた。
綺麗だと思った。
ただ、それだけだった。
まさか。
この時の俺は知らない。
自分の未来が。
少しずつ終わりへ向かっていることを。
知らなかった。
病室の扉が開く。
振り返る。
そこには陽香と奈津実がいた。
二人とも笑っていた。
いつも通り。
本当に。
いつも通りだった。
だから俺は気付かなかった。
その笑顔の奥に隠された感情に。
そして。
その日から。
俺たちの季節は静かに動き始める。
まるで誰にも聞こえない旋律のように。
ゆっくりと。
確実に。
終わりへ向かって。
――第二話「Moderato ~帰れない放課後~」へ続く。




