プロローグ ― Prelude(プレリュード)―
少し懐かしいノベルゲームのシナリオをイメージして書いてみました
春の風は、どこか懐かしい匂いがした。
校舎裏の桜はまだ咲き始めたばかりで、薄桃色の花びらが風に揺れている。
俺――相楽裕亮は、その景色をぼんやりと眺めていた。
四月。
新しい学年が始まった。
特に何かが変わるわけでもない。
教室が変わって。
クラス替えがあって。
教科書が新しくなる。
ただ、それだけだ。
だけど毎年、この季節になると少しだけ気持ちが浮つく。
春にはそんな力があるのかもしれない。
「兄さん」
不意に後ろから声がした。
振り返る。
見慣れた顔。
相楽陽香だった。
「朝ごはん、ほとんど残してましたよね」
「食欲なかったんだよ」
「またそんなこと言って」
陽香は呆れたようにため息をつく。
義妹。
血は繋がっていない。
だけど一緒に暮らしてきた時間は長い。
今では本当の兄妹みたいなものだった。
「ちゃんと食べないと駄目です」
「はいはい」
「絶対分かってません」
「分かってるって」
そんなやり取りをしているうちに予鈴が鳴った。
陽香は慌てて時計を見る。
「あっ、もうこんな時間」
「遅刻するぞ」
「兄さんのせいです」
「なんでだよ」
「知りません」
少しだけ頬を膨らませてから、陽香は一年生の教室がある校舎へ駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は苦笑する。
本当に。
朝から賑やかな妹だ。
「ヒロー! 聞いてんの?」
背中を勢いよく叩かれ、俺は顔をしかめた。
「痛ぇって」
「アタシの話を無視するからでしょ」
高野奈津実は不満そうに頬を膨らませる。
幼馴染。
腐れ縁。
物心ついた頃から隣にいた存在。
だからこういうやり取りも、今さら特別なことではない。
「で、何の話だったっけ」
「だから、新しい担任の話!」
「ああ」
「絶対聞いてなかったでしょ」
奈津実が呆れたようにため息をつく。
その様子がおかしくて、俺は少し笑った。
こういう何でもない時間が好きだった。
誰かと馬鹿話をして。
授業を受けて。
放課後になったら帰る。
それだけでいい。
特別なことなんていらない。
普通が一番だ。
ずっとそう思っていた。
ずっと続くものだと信じていた。
その時までは。
◇◇◇◇
昼休み。
教室は騒がしかった。
委員長の倉沢秋帆が黒板の前で何かを説明している。
真面目で責任感が強い。
クラス全員から信頼されている人間だった。
「文化祭の実行委員を決めたいと思います」
秋帆の声が響く。
誰も手を挙げない。
毎年恒例の光景だ。
「じゃあ、推薦で――」
「お前やれよ、裕亮」
誰かが言った。
「無理無理」
「ピアノ弾けるんだから文化祭向きだろ」
「関係ないだろ、それ」
教室に笑いが起きる。
俺も苦笑した。
確かにピアノは弾ける。
昔から続けていた。
でも人前に出るのは苦手だ。
「そういやヒロ、最近弾いてる?」
奈津実が聞く。
「一応な」
「聴かせてよ」
「嫌だ」
「即答!?」
教室中から笑い声が上がった。
秋帆も小さく笑っている。
平和な昼休みだった。
本当に。
ただ――
その頃から少しずつ異変は始まっていた。
◇◇◇◇
最近、妙に疲れる。
朝起きるのが辛い。
階段を上るだけで息が切れる。
胸の奥が痛むこともあった。
だけど。
病院へ行くほどじゃない。
そう思っていた。
そのうち治る。
そう思っていた。
俺は昔から丈夫だったから。
風邪も滅多に引かない。
怪我をしてもすぐ治る。
だから大丈夫だと。
根拠もなく信じていた。
◇◇◇◇
五時間目。
数学の授業。
窓の外では桜が揺れている。
先生の声が遠く聞こえた。
なんだか眠い。
頭が重い。
視界が少し霞む。
昨夜、寝不足だっただろうか。
いや。
違う。
何かがおかしい。
そう思った瞬間だった。
世界が傾いた。
「――相楽?」
誰かの声。
遠い。
黒板の文字が滲む。
耳鳴りがした。
椅子が倒れる音。
誰かが叫んでいる。
奈津実だろうか。
秋帆だろうか。
分からない。
身体に力が入らない。
まるで深い水の底へ沈んでいくようだった。
意識が遠ざかる。
桜が見えた。
窓の向こうで舞う花びら。
その景色だけが、不思議なくらい鮮明だった。
◇◇◇◇
人はいつだって。
当たり前が続くと思っている。
明日も。
来週も。
来年も。
同じ日々が続くと信じている。
けれど。
ある日突然。
その当たり前は終わりを告げる。
誰にも気づかれないまま。
静かに。
残酷なくらい静かに。
◇◇◇◇
これは。
限られた未来を生きる、一人の少年の物語。
これは。
失われていく季節の中で紡がれる、いくつもの感情と思いの物語。
そして。
短くて。
けれど永久より長く感じた一瞬の記録。
春風が吹く。
桜が舞う。
まだ誰も知らない。
この年が。
彼らにとって忘れられない最後の旋律になることを。
――Prelude 終。
――第一話「Andante ~告げられた旋律~」へ続く。
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