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追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


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第四話 ― Adagio ~告知の日~ ―

眠れなかった。


もう何日そうだったのか分からない。


目を閉じる。


だけど眠れない。


眠ろうとすると、先生の言葉が頭の中で何度も繰り返される。


兄さんの病気。


検査結果。


残された時間。


聞きたくなかった言葉。


知りたくなかった現実(いま)


それでも。


それは確かに存在していた。


消えてはくれなかった。


     ◇◇◇◇


朝。


窓の外は快晴だった。


昨日までの雨が嘘みたいだった。


青い空。


白い雲。


眩しい陽射し。


本当なら気持ちの良い朝のはずなのに。


私の心は重かった。


制服に袖を通す。


鏡を見る。


少しだけ目が腫れていた。


昨日も泣いたからだ。


最近はそんな日ばかりだった。


「……駄目」


小さく呟く。


こんな顔で病院へ行けない。


兄さんに心配されてしまう。


洗面所で冷たい水を顔に当てる。


深呼吸する。


笑う。


もう一度笑う。


大丈夫。


ちゃんと笑える。


そう自分に言い聞かせた。


     ◇◇◇◇


病院へ向かう途中。


桜並木の道を歩く。


春だった。


兄さんが好きな季節。


昔からそうだった。


暖かくて。


のんびりしていて。


何かが始まりそうな季節だから。


「陽香」


そう呼ばれた気がした。


振り返る。


誰もいない。


ただ風が吹いているだけだった。


分かっている。


そんなはずない。


兄さんは病院にいる。


ここにはいない。


それでも。


昔の記憶が蘇る。


小学校の帰り道。


転んで泣いた私の手を引いてくれた兄さん。


夏祭り。


迷子になった私を探してくれた兄さん。


雪の日。


一緒に雪だるまを作った兄さん。


たくさんの思い出。


どれも当たり前みたいに続いていくと思っていた。


     ◇◇◇◇


病室の前で足が止まる。


ドアの向こうには兄さんがいる。


いつも通りの顔で。


きっと笑っている。


何も知らないまま。


私は唇を噛んだ。


先生から聞かされた時。


最初は理解できなかった。


意味が分からなかった。


だって兄さんは元気だったから。


多少無茶をしても平気だった。


風邪も引かない。


怪我もすぐ治る。


そんな人だった。


だから。


信じられなかった。


「……兄さん」


声が震える。


泣きそうになる。


だけど。


泣いてはいけない。


兄さんの前では絶対に。


私は大きく息を吸った。


そして病室のドアを開ける。


     ◇◇◇◇


「おはようございます」


「おう」


兄さんはベッドの上で雑誌を読んでいた。


いつも通りだった。


本当に。


いつも通りだった。


「学校は?」


「これからです」


「真面目だな」


「兄さんほどじゃありません」


「それ嫌味か?」


「少しだけ」


兄さんが笑う。


私も笑う。


だけど胸が痛かった。


この笑顔を。


あとどれくらい見られるんだろう。


そんなことを考えてしまう。


最低だ。


そんなこと考えたくないのに。


頭の中から消えてくれない。


     ◇◇◇◇


昼過ぎ。


先生に呼ばれた。


診察室。


私と奈津実さん。


そして先生。


重苦しい空気だった。


先生は静かに言う。


「今日、相楽くん本人に説明します」


私は息を呑んだ。


奈津実さんも同じだった。


ついに来てしまった。


その日が。


「本当に必要なんですか」


私が聞く。


先生は頷いた。


「本人には知る権利があります」


正論だった。


分かっている。


分かっているけど。


納得なんてできない。


兄さんはまだ笑っているのに。


退院したら何をするか考えているのに。


未来の話をしているのに。


その全部を壊してしまう。


そんな気がした。


     ◇◇◇◇


病室へ戻る。


兄さんは窓の外を見ていた。


春の空を。


遠くを見るみたいに。


「陽香?」


「はい」


「どうした?」


「え?」


「顔色悪いぞ」


兄さんは本気で心配していた。


自分の方が大変なのに。


私のことを心配している。


昔からそうだった。


兄さんはいつもそうだ。


自分のことは後回し。


周りの人のことばかり考える。


だから余計に辛かった。


「何でもありません」


私は笑う。


兄さんも笑う。


その瞬間だった。


病室のドアがノックされた。


担当医だった。


「相楽くん」


穏やかな声。


だけど。


私は知っている。


その先にある言葉を。


「少しお話があります」


兄さんは首を傾げる。


何も知らないまま。


「俺ですか?」


「はい」


兄さんはベッドから降りる。


私の心臓が痛いほど鳴った。


止めたかった。


行かないでほしかった。


知らないままでいてほしかった。


そんなこと無理だと分かっていても。


     ◇◇◇◇


診察室へ向かう兄さんの背中を見る。


その姿が少し遠く感じた。


手を伸ばしても届かないくらい。


遠く。


遠くへ。


離れていくような気がした。


「陽香」


隣で奈津実さんが言う。


私は振り返る。


奈津実さんも泣きそうだった。


だけど泣いていない。


必死に堪えている。


私も同じだった。


泣いたら終わる気がした。


何かが。


大切な何かが。


     ◇◇◇◇


人は。


大切な人がいるから強くなれる。


だけど。


大切な人がいるから弱くもなる。


失いたくない。


傷付いてほしくない。


苦しんでほしくない。


そう願うほど。


心は脆くなっていく。


私もそうだった。


兄さんを失いたくなかった。


ずっと。


これからも。


家族でいたかった。


ただそれだけだった。


だけど現実(いま)は残酷だ。


願うだけでは変わらない。


どれだけ希望(ゆめ)を抱いても。


どれだけ理想(ゆめ)を描いても。


届かないものはある。


そして今。


兄さんは知ろうとしている。


自分自身の運命(さだめ)を。


人生を変えてしまう真実を。


春の風が吹く。


窓の外では桜が揺れていた。


まるで。


これから始まる別れの序曲を奏でるように。


――第五話「Largo ~終わりの始まり~」へ続く。

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