特別編Ⅰ Arabesque ~始まりの風景~
春の風は、どこか懐かしい匂いがする。
桜の花びらが舞う坂道を、自転車を押しながら歩いていた。
四月。
高校生活が始まって、まだ数週間。
新しい制服にも少し慣れてきた頃だった。
「……眠い」
思わず呟く。
昨日は少しだけ夜更かしをしてしまった。
別に何かをしていたわけじゃない。
ただ、ぼんやりとピアノを弾いていただけだ。
春の夜は静かで。
気付けば、つい時間を忘れてしまう。
「ヒロー!」
背後から声が飛んできた。
振り返る。
見慣れた顔がそこにあった。
「朝から元気だな」
「アンタが元気なさすぎるだけ」
高野奈津実が自転車を止める。
幼馴染。
家も近い。
気付けばずっと隣にいた存在。
「ほら、遅れるよ」
「まだ時間あるだろ」
「十分前行動!」
「先生かよ」
「違いますー」
奈津実が笑う。
俺もつられて少し笑った。
こんなやり取りも、もう何年続いているだろう。
きっと、これから先も変わらない。
この時の俺は、本気でそう思っていた。
◇◇◇◇
教室の窓から見える桜は満開だった。
昼休み。
クラスメイトたちの話し声が響く。
新しい教室。
新しい友達。
まだ少しだけ距離のある空気。
だけど、それも悪くない。
「相楽くん」
声を掛けられる。
振り返ると、倉沢秋帆が立っていた。
「今日の委員会なんだけど」
「ああ」
「放課後、少し時間あるかな?」
「別にいいけど」
「ありがとう」
そう言って微笑む。
真面目そうな人だな。
それが最初の印象だった。
◇◇◇◇
放課後。
教室には夕陽が差し込んでいた。
「文化委員って何するんだ?」
「色々だよ」
「ざっくりだな」
秋帆が小さく笑う。
その笑い方が何となく柔らかくて。
少しだけ話しやすい人かもしれないと思った。
「相楽くんってピアノ弾くんだよね」
「……何で知ってるんだ」
「自己紹介で言ってたよ?」
「あ」
そういえば言った気がする。
「好きなの?」
「まあ」
「どんな曲を弾くの?」
「色々」
「それもざっくりだね」
今度は少し大きく笑う。
俺も苦笑した。
不思議だった。
初めてちゃんと話したはずなのに。
妙に話しやすい。
夕暮れの教室。
窓の外では運動部の声が聞こえる。
穏やかな時間だった。
◇◇◇◇
「兄さん、おかえりなさい」
家へ帰ると、陽香が玄関へ顔を出した。
まだ中学三年生。
制服姿のまま、何やら本を読んでいたらしい。
「受験勉強?」
「少しだけです」
「真面目だな」
「兄さんほどじゃありません」
「嫌味か?」
「少しだけ」
陽香が笑う。
俺も笑う。
こんな何でもない会話が好きだった。
家に帰って。
夕飯を食べて。
テレビを見て。
時々くだらない話をする。
そんな日々《きせつ》。
きっと、ずっと続くのだと思っていた。
◇◇◇◇
翌日の放課後。
奈津実に半ば強引に連れ出された。
「どこ行くんだよ」
「いいから」
「怪しいな」
「怪しくない」
辿り着いたのは、町外れの小さな公園だった。
ブランコ。
滑り台。
砂場。
昔から何も変わらない場所。
「懐かしいな」
「でしょ?」
奈津実がブランコへ座る。
夕陽が差し込んでいる。
「高校生になってから来る場所じゃないな」
「たまにはいいじゃん」
それもそうか。
俺も隣のブランコへ腰を下ろした。
風が吹く。
桜の花びらが舞う。
「なあ」
奈津実が言った。
「ん?」
「高校ってどう?」
少し考える。
「普通かな」
「ヒロらしい答え」
「そうか?」
「そうだよ」
奈津実が笑う。
「でもさ」
「うん」
「その普通って、結構大事なんじゃない?」
「急だな」
「何となく」
俺は空を見上げた。
春の空。
どこまでも青い。
「……そうかもな」
それだけ答えた。
◇◇◇◇
数日後。
休日。
珍しく四人で出掛けることになった。
きっかけは本当に些細なものだった。
陽香が、
「桜を見に行きたいです」
と言っただけ。
だから。
みんなで隣町の公園へ来ていた。
「綺麗ですね」
陽香が空を見上げる。
満開の桜。
青い空。
暖かな陽射し。
「人も多いな」
「有名な場所だからね」
秋帆が答える。
奈津実は屋台を見ている。
「団子食べたい」
「花より団子だな」
「悪い?」
「別に」
そんな会話。
何でもない時間。
だけど。
妙に心地良かった。
◇◇◇◇
桜並木を歩く。
風が吹く。
花びらが舞う。
「来年も来たいですね」
陽香が言った。
「そうだな」
「うん」
「またみんなで」
その言葉に。
何となく頷いた。
来年。
再来年。
その先も。
こんなふうに笑っている気がした。
◇◇◇◇
人は未来を疑わない。
明日が来ることを。
来年が来ることを。
当たり前のように信じている。
俺もそうだった。
何も知らなかったから。
何も失っていなかったから。
◇◇◇◇
帰り道。
夕陽が町を染めていた。
「疲れたー」
奈津実が伸びをする。
「歩いただけだろ」
「それが疲れるんです」
陽香が少し笑う。
秋帆も微笑む。
その光景を見ながら。
何だか少しだけ思った。
悪くないな、と。
こういうの。
◇◇◇◇
「何笑ってんの?」
奈津実が聞く。
「別に」
「怪しい」
「怪しくない」
「絶対何か考えてる」
「考えてない」
三人が笑う。
俺も笑った。
◇◇◇◇
夕暮れの空。
春の風。
隣にはみんながいる。
それだけで十分だった。
特別な奇跡なんていらない。
大きな夢もいらない。
ただ。
こういう日々《きせつ》が続けばいい。
本当に。
それだけだった。
◇◇◇◇
「なあ」
俺は空を見上げながら言った。
「何?」
奈津実が聞き返す。
「何かさ」
「うん」
「こういう毎日、ずっと続く気がする」
少しだけ静かになる。
そして。
「何それ」
奈津実が吹き出した。
「急にどうしたの?」
秋帆も笑う。
陽香も不思議そうな顔をしている。
「いや、何となく」
「変な兄さんです」
「ひどいな」
また笑い声が響く。
◇◇◇◇
誰も。
その言葉を疑わなかった。
◇◇◇◇
夕陽が沈んでいく。
春の空がゆっくりと色を変えていく。
そして。
俺たちの物語もまた、静かに始まろうとしていた。
まだ誰も知らない。
この何気ない時間が。
永久より長い一瞬になることを。
――特別編Ⅰ
Arabesque ~始まりの風景~ 終。




