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追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


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20/24

最終話  ―追憶のソルフェージュ ~永久より長い一瞬の中で~―

― 三日前 ―


兄さんは目を覚まさなかった。


正確には。


目を覚ます時間よりも、眠っている時間の方が長くなっていた。


病室は静かだった。


機械の音。


規則正しい電子音。


白い天井。


白いシーツ。


何度も見た景色。


だけど。


もう以前とは違っていた。


私はベッドの横に座る。


兄さんの手を握る。


温かかった。


けれど。


その温もりが少しずつ遠ざかっている気がした。


「兄さん」


呼ぶ。


返事はない。


それでも。


聞こえているような気がした。


だから。


毎日話し掛けた。


学校のこと。


文化祭のこと。


奈津実さんのこと。


秋帆さんのこと。


何でもない話を。


ずっと。



---


― 二日前 ―


アタシは病室の窓際に立っていた。


外は夕暮れだった。


文化祭の準備は続いている。


クラスのみんなも待っている。


でも。


ヒロはいない。


音楽室にも。


教室にも。


放課後にも。


どこにもいない。


それだけなのに。


世界《ここ》から色が抜け落ちたみたいだった。


「ヒロ」


名前を呼ぶ。


返事はない。


当たり前だ。


分かっている。


それでも呼んでしまう。


昔からそうだった。


辛い時も。


苦しい時も。


アタシはヒロを呼んだ。


そうすれば何とかなる気がしたから。



---


ふと。


病室の棚に置かれた五線譜へ目が向く。


未完成の楽譜。


最後の数小節だけ空白だった。


完成しなかった曲。


文化祭で弾くはずだった曲。


ヒロが残そうとしたもの。


アタシは譜面をそっと撫でた。


「馬鹿だな」


小さく笑う。


涙が落ちた。


「最後までやれよ」



---


― 一日前 ―


私は病室で楽譜を読んでいた。


何度も。


何度も。


一音も逃さないように。


裕亮くんが残した音を。


忘れないように。



---


不思議な曲だった。


優しくて。


温かくて。


どこか懐かしい。


派手ではない。


難解でもない。


だけど。


聴いていると景色が見える。


夕暮れの教室。


放課後の廊下。


文化祭前の慌ただしい日々。


友達の笑い声。


何でもない毎日。



---


きっと。


裕亮くんが愛していたものだ。


特別な奇跡じゃない。


ただの場所《せかい》。


ただの過去《おもいで》。


だけど。


彼にとっては何より大切だった。



---


夜。


病室の空気が変わった。


医師たちが慌ただしく動く。


私たちは廊下で待った。


誰も喋らない。


誰も泣かない。


ただ。


祈ることしかできなかった。



---


そして。


静かな夜の中で。


裕亮くんは旅立った。



---


最期まで穏やかな顔だった。


まるで。


少し疲れて眠っているだけみたいに。



---


陽香ちゃんが泣いていた。


奈津実さんも。


私も。


みんな泣いていた。



---


だけど。


その顔はどこか優しかった。



---


― 文化祭当日 ―


秋晴れだった。


皮肉なくらい綺麗な空だった。



---


文化祭は予定通り開催された。


校門には飾り付け。


教室には笑い声。


ステージには音楽。



---


みんな知っていた。


相楽裕亮が来られないことを。



---


それでも。


文化祭は始まった。


時間は止まらない。


季節も止まらない。


だからこそ。


前へ進まなければならなかった。



---


午後。


講堂。


客席は静かだった。


ステージ中央にはピアノが二台置かれている。



---


奈津実さんと私は並んで座った。



---


「緊張してる?」


「めちゃくちゃ」



---


二人で視線を合わせる。


そして笑う。



---


「やろう」


「うん」



---


未完成の楽譜。


最後まで書かれなかった旋律。



---


でも私たちは知っていた。


裕亮くんが伝えたかったことを。



---


演奏が始まる。



---


優しい音。


温かい音。



---


まるで。


誰かが隣で笑っているみたいだった。



---


奈津実さんの音。


私の音。


そして。


譜面の向こうにいる裕亮くんの音。



---


音楽が講堂を満たしていく。



---


陽香ちゃんは客席で泣いていた。


けれど。


その表情は少しだけ笑っていた。



---


兄さん。



---


あなたの曲は未完成です。



---


最後の数小節はありません。



---


だけど。


それで良かったのかもしれません。



---


だって。


兄さんの想いは残ったから。



---


みんなの中に。



---


演奏は続く。



---


私は見えた気がした。



---


夕暮れの教室。


窓際の席。


笑う兄さんの影《すがた》。



---


音が重なる。



---


それは悲しみだけの曲じゃなかった。



---


出会えたこと。


笑い合えたこと。


一緒に過ごした時間《きせつ》。



---


たくさんの感情《おもい》。



---


全部が音になっていた。



---


やがて。


最後の音が消える。



---


静寂。



---


誰も動かない。



---


そして。


拍手が響いた。



---


講堂中を包む拍手。



---


私たちは立ち上がる。



---


青い空。


文化祭。


友達。


学校。



---


兄さんが愛した場所《せかい》がそこにあった。



---


人はいつか別れる。



---


どんな約束《ちかい》も。


どんな未来《あした》も。


永遠ではない。



---


だけど。


誰かを想った記憶は消えない。



---


音楽みたいに。



---


心の奥で鳴り続ける。



---


その曲にはまだ名前がなかった。


完成しなかったから。



---


でも誰かが言った。



---


「これは……ソルフェージュみたいだね」



---


そしてその日から。


その曲はこう呼ばれるようになった。



---


追憶のソルフェージュ



---


永久より長い一瞬。



---


それは。


当たり前だった日々の中にあった。



---


笑い声の中に。


放課後の夕陽の中に。


何気ない会話の中に。



---


そして今も。



---


どこかで静かに鳴り続けている。



---


まるで。


終わることのないソルフェージュのように。



---


― Fin ―

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