最終話 ―追憶のソルフェージュ ~永久より長い一瞬の中で~―
― 三日前 ―
兄さんは目を覚まさなかった。
正確には。
目を覚ます時間よりも、眠っている時間の方が長くなっていた。
病室は静かだった。
機械の音。
規則正しい電子音。
白い天井。
白いシーツ。
何度も見た景色。
だけど。
もう以前とは違っていた。
私はベッドの横に座る。
兄さんの手を握る。
温かかった。
けれど。
その温もりが少しずつ遠ざかっている気がした。
「兄さん」
呼ぶ。
返事はない。
それでも。
聞こえているような気がした。
だから。
毎日話し掛けた。
学校のこと。
文化祭のこと。
奈津実さんのこと。
秋帆さんのこと。
何でもない話を。
ずっと。
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― 二日前 ―
アタシは病室の窓際に立っていた。
外は夕暮れだった。
文化祭の準備は続いている。
クラスのみんなも待っている。
でも。
ヒロはいない。
音楽室にも。
教室にも。
放課後にも。
どこにもいない。
それだけなのに。
世界から色が抜け落ちたみたいだった。
「ヒロ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
分かっている。
それでも呼んでしまう。
昔からそうだった。
辛い時も。
苦しい時も。
アタシはヒロを呼んだ。
そうすれば何とかなる気がしたから。
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ふと。
病室の棚に置かれた五線譜へ目が向く。
未完成の楽譜。
最後の数小節だけ空白だった。
完成しなかった曲。
文化祭で弾くはずだった曲。
ヒロが残そうとしたもの。
アタシは譜面をそっと撫でた。
「馬鹿だな」
小さく笑う。
涙が落ちた。
「最後までやれよ」
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― 一日前 ―
私は病室で楽譜を読んでいた。
何度も。
何度も。
一音も逃さないように。
裕亮くんが残した音を。
忘れないように。
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不思議な曲だった。
優しくて。
温かくて。
どこか懐かしい。
派手ではない。
難解でもない。
だけど。
聴いていると景色が見える。
夕暮れの教室。
放課後の廊下。
文化祭前の慌ただしい日々。
友達の笑い声。
何でもない毎日。
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きっと。
裕亮くんが愛していたものだ。
特別な奇跡じゃない。
ただの場所。
ただの過去。
だけど。
彼にとっては何より大切だった。
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夜。
病室の空気が変わった。
医師たちが慌ただしく動く。
私たちは廊下で待った。
誰も喋らない。
誰も泣かない。
ただ。
祈ることしかできなかった。
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そして。
静かな夜の中で。
裕亮くんは旅立った。
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最期まで穏やかな顔だった。
まるで。
少し疲れて眠っているだけみたいに。
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陽香ちゃんが泣いていた。
奈津実さんも。
私も。
みんな泣いていた。
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だけど。
その顔はどこか優しかった。
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― 文化祭当日 ―
秋晴れだった。
皮肉なくらい綺麗な空だった。
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文化祭は予定通り開催された。
校門には飾り付け。
教室には笑い声。
ステージには音楽。
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みんな知っていた。
相楽裕亮が来られないことを。
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それでも。
文化祭は始まった。
時間は止まらない。
季節も止まらない。
だからこそ。
前へ進まなければならなかった。
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午後。
講堂。
客席は静かだった。
ステージ中央にはピアノが二台置かれている。
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奈津実さんと私は並んで座った。
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「緊張してる?」
「めちゃくちゃ」
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二人で視線を合わせる。
そして笑う。
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「やろう」
「うん」
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未完成の楽譜。
最後まで書かれなかった旋律。
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でも私たちは知っていた。
裕亮くんが伝えたかったことを。
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演奏が始まる。
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優しい音。
温かい音。
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まるで。
誰かが隣で笑っているみたいだった。
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奈津実さんの音。
私の音。
そして。
譜面の向こうにいる裕亮くんの音。
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音楽が講堂を満たしていく。
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陽香ちゃんは客席で泣いていた。
けれど。
その表情は少しだけ笑っていた。
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兄さん。
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あなたの曲は未完成です。
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最後の数小節はありません。
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だけど。
それで良かったのかもしれません。
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だって。
兄さんの想いは残ったから。
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みんなの中に。
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演奏は続く。
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私は見えた気がした。
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夕暮れの教室。
窓際の席。
笑う兄さんの影。
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音が重なる。
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それは悲しみだけの曲じゃなかった。
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出会えたこと。
笑い合えたこと。
一緒に過ごした時間。
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たくさんの感情。
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全部が音になっていた。
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やがて。
最後の音が消える。
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静寂。
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誰も動かない。
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そして。
拍手が響いた。
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講堂中を包む拍手。
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私たちは立ち上がる。
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青い空。
文化祭。
友達。
学校。
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兄さんが愛した場所がそこにあった。
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人はいつか別れる。
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どんな約束も。
どんな未来も。
永遠ではない。
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だけど。
誰かを想った記憶は消えない。
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音楽みたいに。
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心の奥で鳴り続ける。
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その曲にはまだ名前がなかった。
完成しなかったから。
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でも誰かが言った。
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「これは……ソルフェージュみたいだね」
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そしてその日から。
その曲はこう呼ばれるようになった。
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追憶のソルフェージュ
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永久より長い一瞬。
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それは。
当たり前だった日々の中にあった。
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笑い声の中に。
放課後の夕陽の中に。
何気ない会話の中に。
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そして今も。
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どこかで静かに鳴り続けている。
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まるで。
終わることのないソルフェージュのように。
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― Fin ―




