第十八話 ―Notturno ~月下の旋律~ ―
文化祭まで、あと七日。
秋の風は少しずつ冷たくなっていた。
校舎の窓から見える空も高い。
夏はもう終わっていた。
だけど。
俺の机の上にある楽譜だけは、まだ終わっていなかった。
◇◇◇◇
「また徹夜しただろ」
奈津実が呆れたように言う。
「してない」
「顔見れば分かる」
「委員長かお前は」
「アタシはアタシ」
昼休み。
教室の窓際。
奈津実はじっと俺を見る。
その視線から逃げるように、俺は五線譜へ目を落とした。
未完成。
何度見ても同じだった。
あと少し。
本当にあと少しなのに。
最後の旋律だけが見つからない。
◇◇◇◇
退院してから。
俺はずっと考えていた。
何を残せるだろう、と。
大した人生じゃない。
特別な人間でもない。
賞を取ったこともない。
有名になる予定もない。
だけど。
何も残らないのは少し寂しいと思った。
だから曲を書き始めた。
自分でも理由はよく分からない。
ただ。
音にしておきたかった。
この時間を。
この学校を。
奈津実や秋帆や陽香と過ごした日々を。
◇◇◇◇
放課後。
音楽室。
誰もいない部屋でピアノに向かう。
鍵盤へ指を置く。
音が流れる。
未完成の旋律。
途中までは綺麗なのに。
最後だけが見えない。
まるで。
その先の未来だけが白紙になっているみたいだった。
「駄目だな」
独り言が漏れる。
◇◇◇◇
文化祭まで六日。
体調は明らかに悪くなっていた。
階段が辛い。
息が続かない。
視界がぼやける。
それでも学校へ来ていた。
家で寝ていても同じだから。
だったら。
学校にいたかった。
◇◇◇◇
夕方。
秋帆が音楽室へ来た。
「大丈夫?」
第一声がそれだった。
「大丈夫」
反射的に答える。
すると。
秋帆は少しだけ困った顔をした。
「その言葉、最近信じられない」
俺は苦笑する。
図星だった。
◇◇◇◇
「曲は?」
「あと少し」
「完成しそう?」
「分からん」
「そればっかり」
秋帆が笑う。
俺も笑う。
その時間は不思議と心地良かった。
◇◇◇◇
文化祭まで五日。
朝から身体が重かった。
鉛みたいだった。
教室へ着くだけで息が切れる。
奈津実が何か言いたそうな顔をしていた。
陽香も同じだった。
でも。
誰も何も言わなかった。
◇◇◇◇
放課後。
文化祭実行委員との打ち合わせ。
教室の装飾。
スケジュール確認。
そんな何気ない会話を聞きながら思う。
来年もこういう準備をしている人たちがいるんだろうな、と。
当たり前のように。
何事もなく。
季節は巡る。
◇◇◇◇
帰宅後。
机へ向かう。
五線譜を開く。
鉛筆を持つ。
だけど。
手が震えていた。
思うように線が引けない。
音符も書けない。
「情けないな」
思わず笑った。
◇◇◇◇
その夜。
久しぶりに夢を見た。
小学校の校庭。
奈津実と走っていた。
陽香が後ろから追い掛けてくる。
夕焼け。
笑い声。
何でもない景色。
だけど。
夢の中の俺は知っていた。
もう戻れないことを。
◇◇◇◇
文化祭まで四日。
朝。
目が覚めた時から調子が悪かった。
それでも学校へ行く。
行きたかった。
音楽室へ行く。
曲を書きたかった。
文化祭に間に合わせたかった。
それだけだった。
◇◇◇◇
昼休み。
窓の外を見る。
青空だった。
綺麗だった。
妙に綺麗だった。
「ヒロ」
奈津実の声が聞こえる。
「ん?」
「今日は帰った方がいい」
「嫌だ」
「子供か」
「文化祭あるし」
奈津実は俯いた。
何か言いたそうだった。
でも結局何も言わなかった。
◇◇◇◇
放課後。
音楽室。
誰もいない。
静かな空間。
ピアノの前へ座る。
未完成の曲を弾く。
最初から。
何度も。
何度も。
◇◇◇◇
音が流れる。
懐かしい日々。
夏祭り。
勉強会。
海。
放課後。
みんなの笑顔。
そんな景色が浮かぶ。
◇◇◇◇
そして。
最後の部分へ差し掛かった時だった。
突然。
視界が揺れた。
◇◇◇◇
鍵盤が霞む。
息が苦しい。
胸が痛い。
今までとは違う。
本能的に分かった。
◇◇◇◇
「まずいな……」
声が出ない。
身体に力が入らない。
椅子から落ちそうになる。
◇◇◇◇
窓の外では夕陽が沈みかけていた。
オレンジ色の光。
静かな音楽室。
◇◇◇◇
不思議だった。
怖くなかった。
少しだけ。
悔しかっただけだ。
◇◇◇◇
まだ完成していない。
曲が。
文化祭が。
みんなとの約束が。
◇◇◇◇
意識が遠くなる。
その時。
ふと。
最後の旋律が浮かんだ。
◇◇◇◇
ああ。
そうか。
そうだったのか。
◇◇◇◇
俺が探していた音は。
特別なものじゃなかった。
壮大な終わりでも。
奇跡でも。
悲劇でもない。
◇◇◇◇
ただ。
いつもの放課後だった。
みんながいて。
笑っていて。
夕陽が差し込んでいて。
帰ろうかと話している。
そんな。
何でもない景色。
◇◇◇◇
俺が一番好きだったもの。
それが答えだった。
◇◇◇◇
震える手で。
最後の音を書こうとする。
だけど。
鉛筆が落ちた。
床へ転がる。
◇◇◇◇
遠くで誰かの声がした。
近付いてくる足音。
扉が開く音。
◇◇◇◇
「兄さん!」
◇◇◇◇
陽香だった。
続いて。
奈津実の声。
秋帆の声。
◇◇◇◇
みんなが何か叫んでいる。
でも。
よく聞こえなかった。
◇◇◇◇
ただ。
少し安心した。
最後に聞こえたのが。
みんなの声だったから。
◇◇◇◇
夕陽が滲む。
音楽室が霞む。
未完成の楽譜が揺れて見える。
◇◇◇◇
それでも。
不思議と後悔はなかった。
◇◇◇◇
普通で良かった。
特別じゃなくて良かった。
みんなと笑えて良かった。
◇◇◇◇
そんなことを思いながら。
俺はゆっくり目を閉じた。
◇◇◇◇
文化祭まで、あと四日。
未完成の旋律。
届かなかった音。
消えかける灯火。
◇◇◇◇
けれど。
誰もまだ知らない。
その楽譜の最後に残された一行が。
みんなの運命を変えることを。
そして。
未完成だったはずの曲が。
最後の奇跡を奏でることを。
◇◇◇◇
――最終話
「追憶のソルフェージュ ~永久より長い一瞬の中で~」へ続く。




