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追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


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第十七話 ―Ritardando ~遠ざかる鼓動~―

最近、兄さんはよく笑う。


それは良いことのはずだった。


病院にいた頃よりも。


退院した直後よりも。


ずっと自然に笑うようになった。


学校の話をして。


奈津実さんとくだらない言い合いをして。


秋帆さんと文化祭の話をして。


家でも普通に過ごしている。


本当に。


何も変わっていないように見える。


だけど。


わたしは知っている。


それが優しい嘘だということを。


     ◇◇◇◇


九月も半ばに差しかかっていた。


文化祭の準備は本格的になっている。


放課後になれば。


校舎のあちこちから金槌の音や笑い声が聞こえてくる。


兄さんも毎日のように学校へ残っていた。


文化祭のステージ。


そして作曲。


未完成の楽譜。


最近の兄さんは、その二つだけを見つめている気がした。


     ◇◇◇◇


その日の夕方。


わたしは音楽室へ向かっていた。


忘れ物を届けるためだった。


兄さんの筆箱。


朝、机の上に置きっぱなしだった。


音楽室の前まで来る。


中からピアノの音が聞こえた。


兄さんだった。


扉の隙間から覗く。


夕陽に照らされた背中。


静かな音楽室。


兄さんは一人でピアノを弾いていた。


     ◇◇◇◇


知らない曲だった。


きっと作っている曲なのだと思う。


優しい旋律だった。


どこか懐かしくて。


少しだけ寂しい。


まるで。


遠い思い出を辿るみたいな音だった。


わたしは黙って聴いていた。


兄さんは気付いていない。


夢中になっていた。


     ◇◇◇◇


ふと。


音が止まる。


兄さんの肩が小さく揺れた。


苦しそうに胸を押さえる。


わたしの心臓が跳ねた。


「兄さん!」


思わず扉を開ける。


兄さんが振り返った。


驚いた顔。


だけど次の瞬間には笑っていた。


「陽香か」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫」


即答だった。


でも。


顔色は明らかに悪かった。


額には薄く汗が浮いている。


     ◇◇◇◇


「無理してますよね」


わたしが言う。


兄さんは苦笑した。


「してない」


「嘘です」


「してないって」


「兄さん」


少し強い声になってしまう。


兄さんは困ったように頭を掻いた。


「そんな顔するなよ」


「だったら無理しないでください」


「無理してない」


同じ言葉。


何度も聞いた言葉。


そして。


その度に嘘だと分かる言葉だった。


     ◇◇◇◇


兄さんは昔からそうだった。


痛い時も。


苦しい時も。


平気な顔をする。


周りを心配させたくないから。


それが兄さんの優しさだった。


でも今は。


その優しさが辛かった。


     ◇◇◇◇


「帰るか」


兄さんが立ち上がる。


わたしたちは一緒に校舎を出た。


夕暮れだった。


西の空が赤い。


秋の風が少し冷たい。


兄さんは何も言わなかった。


わたしも何も言えなかった。


     ◇◇◇◇


帰り道。


住宅街を歩く。


静かな時間。


虫の声が聞こえる。


「文化祭楽しみですか?」


わたしが聞く。


兄さんは少し笑った。


「まあな」


「珍しいですね」


「何が」


「兄さんが文化祭に本気なの」


兄さんは空を見上げた。


雲がゆっくり流れている。


「そうかもな」


小さく呟く。


     ◇◇◇◇


「曲、完成しそうですか?」


「あと少し」


「どんな曲なんですか?」


兄さんは少し考える。


そして。


「分からん」


と言った。


「またですか」


「本当に分からない」


笑う。


「ただ」


兄さんは続けた。


「今の気持ちかな」


     ◇◇◇◇


今の気持ち。


その言葉が胸に残る。


兄さんは何を思っているのだろう。


怖くないはずがない。


苦しくないはずがない。


なのに。


わたしたちの前では笑っている。


まるで本当に平気みたいに。


     ◇◇◇◇


家へ帰る。


夕食。


テレビ。


何気ない会話。


いつも通りの時間。


母も父もいない食卓。


昔から変わらない兄妹だけの風景。


兄さんはテレビを見ながら笑っていた。


わたしも笑う。


だけど。


心の中ではずっと不安だった。


     ◇◇◇◇


夜。


兄さんの部屋の前を通る。


灯りがついていた。


そっと覗く。


机に向かっている。


五線譜。


鉛筆。


何度も書いては消している。


時間を見る。


もう十一時を過ぎていた。


     ◇◇◇◇


ノックする。


「兄さん」


「ん?」


「寝ないんですか」


「もう少し」


「駄目です」


「あと少しだけ」


「それ昨日も聞きました」


兄さんが笑った。


「厳しいな」


「当たり前です」


わたしは腕を組む。


兄さんは降参したように両手を上げた。


「分かった」


     ◇◇◇◇


だけど。


わたしは知っている。


きっとこの後も起きている。


部屋の灯りが消えるのはもっと遅い。


最近ずっとそうだった。


     ◇◇◇◇


自室へ戻る。


ベッドに腰掛ける。


窓の外には月が見えた。


綺麗な夜だった。


静かな夜だった。


だからこそ。


余計なことを考えてしまう。


     ◇◇◇◇


兄さんは優しい。


誰よりも優しい。


だから嘘をつく。


大丈夫だと。


平気だと。


苦しくないと。


わたしたちを安心させるために。


だけど。


その嘘は優しすぎる。


優しいからこそ苦しい。


     ◇◇◇◇


わたしも嘘をついている。


兄さんの前では笑う。


心配していないふりをする。


大丈夫だと思っているふりをする。


本当は違うのに。


怖くて仕方ないのに。


     ◇◇◇◇


兄さん。


わたしは思う。


本当は泣きたい。


本当は弱音を聞きたい。


無理しないでほしい。


もっと頼ってほしい。


もっと甘えてほしい。


     ◇◇◇◇


でも。


それを言ったら。


兄さんを困らせてしまう気がした。


だから言えない。


わたしも嘘をつく。


兄さんと同じように。


     ◇◇◇◇


人は時々。


優しさのために嘘をつく。


相手を守るために。


傷付けないために。


それは間違いではないのかもしれない。


だけど。


優しい嘘ほど悲しいものはない。


本当の気持ちを隠してしまうから。


     ◇◇◇◇


窓の外で風が鳴る。


秋の気配が近付いていた。


文化祭まであと少し。


兄さんの曲も。


文化祭の準備も。


少しずつ完成へ近付いている。


時間は止まらない。


ゆっくりと。


確実に。


まるで楽譜に書かれたリタルダンドみたいに。


少しずつ速度を落としながら。


それでも前へ進んでいく。


     ◇◇◇◇


わたしは目を閉じる。


願い事は一つだった。


文化祭の日。


兄さんが笑っていますように。


ただそれだけ。


それだけで良かった。


     ◇◇◇◇


夜は静かだった。


遠くで虫が鳴いている。


兄さんの部屋の灯りは。


まだ消えていなかった。


――第十八話「Notturno ~月下の旋律~」へ続く。

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