第十六話 ―Lacrimosa ~消えない旋律~―
秋が近付いていた。
夏の終わり特有の空気。
まだ暑さは残っているのに、どこか風が違う。
校舎の窓から見える空も少し高くなった気がした。
二学期が始まり。
学校は文化祭の準備一色になっていた。
廊下にはポスター。
教室には段ボール。
放課後になれば、あちこちから作業する声が聞こえてくる。
そんな賑やかな日々の中で。
私は時々、不思議な感覚に襲われていた。
時間が足りない。
そんな感覚だった。
何に対してなのかは分からない。
ただ。
胸の奥で何かが急かしている。
そんな気がしていた。
◇◇◇◇
放課後。
委員会の仕事を終えて教室へ戻る。
夕陽が差し込んでいた。
教室には数人しか残っていない。
奈津実さんはクラス企画の資料をまとめている。
陽香ちゃんは兄の迎えを待っていた。
そして。
窓際の席には裕亮くんがいた。
ノートを広げている。
音符で埋め尽くされた五線譜。
最近ずっとそうだった。
夏休みの後半から。
裕亮くんは突然、曲を書き始めた。
最初は趣味だと思っていた。
でも違う。
あれは趣味なんかじゃない。
何かに取り憑かれたみたいだった。
授業中も。
休み時間も。
放課後も。
気付けば五線譜と向き合っている。
◇◇◇◇
「また書いてるの?」
私が聞く。
裕亮くんは顔を上げた。
「ああ」
「進んだ?」
「全然」
苦笑する。
その笑顔は少し疲れて見えた。
「無理しないでね」
「してない」
「嘘」
即答だった。
裕亮くんが笑う。
「委員長、厳しいな」
「見れば分かるよ」
実際。
最近の裕亮くんは少し無茶をしていた。
顔色が悪い日も増えた。
階段を上るだけで息を切らしていることもある。
それでも。
本人は平気な顔をする。
昔からそうだ。
自分のことを後回しにする。
周りには優しいのに。
自分には優しくない。
◇◇◇◇
「なあ、委員長」
不意に呼ばれる。
「なに?」
「文化祭だけど」
「うん」
裕亮くんは少しだけ視線を落とした。
珍しく迷っているように見えた。
そして。
静かに言った。
「ステージ出ようと思う」
私は言葉を失った。
一瞬。
意味が理解できなかった。
「え?」
思わず聞き返す。
「だから」
裕亮くんが笑う。
「文化祭のステージ」
「出る」
◇◇◇◇
驚いた。
本当に驚いた。
だって。
裕亮くんはずっと断っていたから。
中学の頃から。
先生に頼まれても。
友達に勧められても。
人前で弾くことだけは避け続けていた。
文化祭も同じだった。
去年も断った。
今年も断ると思っていた。
だから。
その言葉は予想外だった。
「どうして?」
私が聞く。
裕亮くんは少し考える。
窓の外を見る。
夕陽が眩しそうだった。
「分からん」
「分からないの?」
「うん」
困ったように笑う。
「でも弾きたくなった」
◇◇◇◇
その時だった。
後ろから声が聞こえる。
「今なんて?」
奈津実さんだった。
資料を抱えたまま固まっている。
陽香ちゃんも驚いていた。
「兄さん」
「うん」
「本気ですか?」
「多分」
「多分じゃないです」
陽香ちゃんが珍しく強い口調になる。
裕亮くんは頭を掻いた。
「本気だよ」
その瞬間。
教室が静かになった。
みんな知っている。
その意味を。
裕亮くんに残された時間を。
未来を。
現実を。
だからこそ。
その決断がどれだけ重いのか分かった。
◇◇◇◇
帰り道。
私は一人で歩いていた。
夕焼けの街。
どこか寂しい色だった。
頭の中では。
さっきの言葉が何度も繰り返されている。
――ステージ出ようと思う。
なぜだろう。
嬉しいはずなのに。
不安だった。
裕亮くんは最近変わった。
以前よりも未来の話をするようになった。
文化祭。
曲。
完成。
演奏。
そんな話をする。
だけど。
それは希望なのか。
それとも。
何か別のものなのか。
私には分からなかった。
◇◇◇◇
数日後。
放課後の音楽室。
私は資料を届けるために校舎を歩いていた。
その途中だった。
ピアノの音が聞こえた。
思わず足を止める。
聞き覚えのない旋律だった。
優しい音。
だけど。
どこか切ない。
まるで。
泣くのを我慢しているみたいな音だった。
私は静かに扉を開ける。
◇◇◇◇
音楽室には裕亮くんがいた。
一人だった。
夕陽に照らされながら。
ピアノを弾いている。
誰もいない空間。
誰にも聴かせるためではない演奏。
それなのに。
胸が苦しくなるほど綺麗だった。
音が流れる。
静かに。
優しく。
そして。
どこか遠くへ向かうように。
私は息をするのも忘れて聴いていた。
◇◇◇◇
やがて曲が終わる。
最後の音が消える。
沈黙。
裕亮くんが振り返った。
「あ」
少し驚いた顔。
「委員長」
「ごめん」
「別にいいけど」
私はピアノへ近付く。
五線譜が置かれていた。
まだ完成していない。
何度も消した跡。
書き直した跡。
悩んだ形跡がそこにあった。
「これ?」
「作ってる曲」
「文化祭で弾くの?」
「そのつもり」
私は譜面を見る。
もちろん全部は分からない。
でも。
大切に書かれていることだけは伝わった。
◇◇◇◇
「裕亮くん」
「ん?」
私は少し迷った。
それでも聞く。
「どうして作ってるの?」
静かな質問だった。
裕亮くんはしばらく黙る。
窓の外を見る。
グラウンドでは運動部が練習していた。
いつもの放課後。
何も変わらない景色。
「残したいんだと思う」
小さな声だった。
私は息を呑む。
「何を?」
「分からん」
笑う。
だけど。
その笑顔は少しだけ寂しかった。
「今のこととか」
「みんなのこととか」
「この学校とか」
「そういうの」
◇◇◇◇
胸が痛くなった。
言葉にできないほど。
裕亮くんは知っている。
自分の病気を。
未来を。
残酷な現実を。
全部知った上で。
それでも前を向いている。
私は突然泣きそうになった。
けれど。
泣けなかった。
泣いたら。
彼の覚悟を否定してしまう気がしたから。
◇◇◇◇
文化祭準備は進んでいく。
教室は賑やかだった。
笑い声が響く。
誰もが忙しい。
誰もが楽しそうだった。
裕亮くんもその中にいる。
笑っている。
普通に話している。
だけど。
時々。
咳き込むことが増えた。
立ち眩みも増えた。
そして。
誰も見ていないと思っている時の表情が。
少しずつ弱くなっていた。
◇◇◇◇
ある日の放課後。
校舎の窓から夕陽を眺める。
赤い空。
秋の始まり。
私は思う。
音楽は不思議だ。
演奏が終わっても。
音は消えても。
心には残る。
ずっと。
消えない。
裕亮くんが作っている曲も。
きっとそうなのだろう。
いつか演奏が終わっても。
その旋律は残る。
誰かの中に。
私たちの中に。
◇◇◇◇
人は忘れてしまう。
景色も。
言葉も。
時間も。
だけど。
本当に大切なものだけは残る。
消えない。
音楽みたいに。
心の奥で鳴り続ける。
静かに。
優しく。
そして切なく。
◇◇◇◇
文化祭まであと一か月。
未完成の楽譜。
夕暮れの音楽室。
ピアノの残響。
誰も知らない。
その曲がどんな形で完成するのか。
誰も知らない。
その演奏がどんな意味を持つのか。
ただ一つだけ分かることがあった。
裕亮くんは今。
確かに自分の心を音に変えようとしている。
届くかどうかなんて分からない。
それでも。
消えてしまわないように。
忘れてしまわないように。
一音ずつ。
未来へ残そうとしていた。
そして私は。
その旋律を。
最後まで聴き届けたいと思った。
たとえどんな結末が待っていたとしても。
――第十七話「Ritardando ~遠ざかる鼓動~」へ続く。




