第十五話 ― Requiem ~告げられた期限~ ―
夏休みも後半に入っていた。
蝉の声は相変わらずうるさい。
朝から晩まで鳴いている。
窓の外には青空。
入道雲。
強い陽射し。
夏はまだ終わる気配を見せていなかった。
だけど。
俺の中では何かが少しずつ変わり始めていた。
◇◇◇◇
病院へ向かう道を歩く。
定期検査の日だった。
何度も通った道。
何度も見た景色。
慣れたはずなのに。
今日は妙に足取りが重かった。
理由は分かっている。
検査結果の日だったからだ。
◇◇◇◇
診察室。
白い壁。
白い机。
担当医がカルテを見ている。
俺は椅子に座っていた。
陽香も一緒だった。
静かな空気だった。
「相楽くん」
医師が口を開く。
その声だけで。
何となく察してしまった。
良い話ではない。
◇◇◇◇
「病状は少し進行しています」
静かな声だった。
感情を抑えた声。
俺は黙って聞いていた。
「投薬治療は続けます」
「はい」
「ただ……」
医師が言葉を選ぶ。
その沈黙が妙に長かった。
◇◇◇◇
「今後は体力の低下が進む可能性があります」
俺は頷く。
驚かなかった。
薄々気付いていた。
階段を上るだけで息が切れる。
少し走れば胸が苦しくなる。
前みたいには動けない。
それくらいは分かっていた。
◇◇◇◇
「文化祭への参加も無理はしないでください」
その言葉だけが少し痛かった。
文化祭。
当たり前みたいに参加するものだと思っていた。
去年もそうだった。
一昨年もそうだった。
だから。
今年だけ違うなんて考えたこともなかった。
◇◇◇◇
診察室を出る。
陽香は何も言わなかった。
俺も何も言わない。
病院の廊下を歩く。
白い天井を見上げる。
何だろうな。
悲しいというより。
妙に現実感がなかった。
◇◇◇◇
帰り道。
俺は一人で公園へ寄った。
小さい頃によく遊んだ場所。
ブランコ。
滑り台。
鉄棒。
夏休みだからか子供たちが遊んでいる。
笑い声が聞こえる。
楽しそうだった。
◇◇◇◇
ベンチへ座る。
空を見上げる。
雲が流れている。
ゆっくりと。
どこまでも。
◇◇◇◇
俺は思う。
あとどれくらいなんだろう。
先生は具体的な数字を言わない。
でも。
分かる。
何となく。
みんなの顔を見れば。
陽香も。
奈津実も。
秋帆も。
みんな知っている。
俺だけが知らないわけじゃない。
◇◇◇◇
だけど。
不思議だった。
怖いのは怖い。
それでも。
泣きたくなるほど絶望しているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ。
少し寂しい。
そんな感じだった。
◇◇◇◇
家へ帰る。
自室へ入る。
机の上には教科書。
参考書。
漫画。
いつも通りだった。
◇◇◇◇
その時だった。
部屋の隅に置いてある五線譜が目に入る。
昔使っていたものだ。
音楽の授業用。
ほとんど白紙。
◇◇◇◇
なぜだろう。
その紙を手に取った。
理由は自分でも分からない。
ただ。
何となくだった。
◇◇◇◇
鉛筆を持つ。
五線譜を開く。
白い紙を見る。
何も書かれていない。
当たり前だ。
◇◇◇◇
だけど。
頭の中には音があった。
ずっと前から。
気付いていなかっただけで。
◇◇◇◇
病院の時計の音。
雨の日の窓。
放課後の教室。
祭りの喧騒。
海の波音。
花火。
笑い声。
◇◇◇◇
全部。
音だった。
◇◇◇◇
俺は最初の音符を書いた。
一つ。
また一つ。
不思議だった。
止まらない。
◇◇◇◇
ピアノへ向かう。
鍵盤へ触れる。
音を鳴らす。
違う。
書き直す。
もう一度弾く。
◇◇◇◇
気付けば夕方になっていた。
◇◇◇◇
「兄さん?」
陽香が部屋を覗く。
「何してるんですか」
「作曲」
自分でも驚く答えだった。
陽香が固まる。
「作曲?」
「多分」
「多分って何ですか」
「俺もよく分からん」
◇◇◇◇
陽香は五線譜を見る。
目を丸くする。
「全部兄さんが?」
「今書いた」
「今日?」
「うん」
◇◇◇◇
自分でも信じられなかった。
楽譜なんてまともに書いたことがない。
コードも知らない。
和声学も知らない。
◇◇◇◇
なのに。
音が浮かぶ。
次の音。
その次の音。
自然に繋がる。
◇◇◇◇
夜になる。
奈津実からメッセージが来る。
暇か。
そんな一言だった。
◇◇◇◇
俺は写真を送った。
五線譜の。
◇◇◇◇
数秒後。
電話が鳴る。
「ヒロ」
開口一番だった。
「どうした」
「どうしたじゃない」
「え?」
「何これ」
「楽譜」
「見れば分かる」
◇◇◇◇
奈津実は本気で困惑していた。
それもそうだと思う。
俺も困惑している。
◇◇◇◇
「作った」
そう言うと。
しばらく沈黙した。
◇◇◇◇
「……マジで?」
「多分」
「だから何その多分」
「分からん」
◇◇◇◇
電話の向こうで笑い声がした。
少しだけ安心した。
◇◇◇◇
翌日。
秋帆も来た。
陽香もいる。
みんなでピアノの前に座る。
◇◇◇◇
「弾くの?」
秋帆が聞く。
「一応」
俺は頷く。
◇◇◇◇
鍵盤へ指を置く。
静かな空気。
夏の午後。
蝉の声。
◇◇◇◇
そして。
音を鳴らした。
◇◇◇◇
誰も知らない曲。
まだ名前もない曲。
だけど。
確かに俺の曲だった。
◇◇◇◇
病院で見た景色。
放課後の教室。
祭りの夜。
海辺の風。
全部を繋げたみたいな旋律。
◇◇◇◇
演奏が終わる。
静寂。
◇◇◇◇
最初に口を開いたのは秋帆だった。
「綺麗」
小さな声だった。
◇◇◇◇
奈津実も頷く。
陽香も黙っている。
◇◇◇◇
俺は少し照れ臭くなった。
「大したもんじゃない」
「大したもんです」
陽香が即答する。
◇◇◇◇
その瞬間。
なぜだろう。
少しだけ分かった気がした。
◇◇◇◇
俺は。
何かを残したいんだ。
◇◇◇◇
未来のためじゃない。
有名になるためでもない。
◇◇◇◇
ただ。
今を残したい。
◇◇◇◇
奈津実が笑ったこと。
秋帆が照れたこと。
陽香が怒ったこと。
◇◇◇◇
みんなと過ごした日々。
みんながいた世界。
◇◇◇◇
それを音にしたい。
◇◇◇◇
もしかしたら。
それは俺なりの抵抗だったのかもしれない。
運命に対する。
終わりに対する。
小さな抵抗。
◇◇◇◇
人は普通を失いそうになって初めて気付く。
それがどれだけ大切だったのか。
◇◇◇◇
学校へ行くこと。
友達と笑うこと。
放課後を過ごすこと。
◇◇◇◇
全部。
奇跡みたいなものだった。
◇◇◇◇
だから俺は書く。
音にする。
◇◇◇◇
いつか消えてしまうとしても。
忘れられてしまうとしても。
◇◇◇◇
それでも。
この世界にいた証として。
この明日を願った証として。
◇◇◇◇
そして。
どこかにあるかもしれない奇跡を信じて。
◇◇◇◇
夏の終わりの風が吹く。
窓の外では蝉が鳴いている。
季節は少しずつ進んでいた。
◇◇◇◇
知らなかった。
この曲が。
やがてみんなの運命を変えることになるなんて。
まだ。
誰も知らなかった。
――第十六話「Lacrimosa ~消えない旋律~」へ続く。




