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追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


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第十三話 ― Appassionato ~届かない想い~ ―

夏休みに入って一週間が過ぎていた。


空はどこまでも青い。


蝉の声が響く。


太陽は容赦なく照り付ける。


まさに夏だった。


     ◇◇◇◇


今日はみんなで海へ来ていた。


地元では有名な海水浴場。


白い砂浜。


穏やかな波。


遠くまで続く水平線。


子供の頃から何度も来た場所だった。


だけど。


今日は少しだけ特別だった。


兄さんがいるから。


奈津実さんがいるから。


秋帆さんがいるから。


みんな揃っているから。


     ◇◇◇◇


「暑い……」


兄さんがパラソルの下で呟く。


「海に来てそれ言います?」


わたしは呆れた。


「だって暑いだろ」


「当たり前です」


「陽香が正しい」


奈津実さんが笑う。


秋帆さんも小さく頷いていた。


兄さんは不満そうな顔をした。


その表情が少しおかしくて。


わたしも笑ってしまう。


     ◇◇◇◇


昼前。


海で遊んだ後。


砂浜でスイカ割りをすることになった。


奈津実さんの提案だった。


「よし、まずはヒロ」


「なんで」


「主役だから」


「意味分からん」


タオルで目隠しをされる。


棒を渡される。


完全に怪しい人だった。


「右!」


「もっと右!」


「違う違う!」


みんな好き勝手なことを言う。


兄さんは混乱していた。


そして。


見事に全然違う方向へ歩き出した。


「そっち海!」


「え?」


「ヒロ海!」


奈津実さんが爆笑する。


秋帆さんまで笑っていた。


     ◇◇◇◇


結局。


兄さんは一度も当てられなかった。


最後に成功したのは秋帆さんだった。


意外だった。


委員長らしく冷静だったのかもしれない。


「やった……」


少し照れながら笑う。


その姿を見て。


兄さんも拍手していた。


「すごいな」


「ありがとう」


秋帆さんの顔が少し赤くなる。


その様子を見ていると。


胸の奥が少しだけざわついた。


     ◇◇◇◇


昼過ぎ。


海の家でかき氷を買った。


いちご。


メロン。


ブルーハワイ。


レモン。


色とりどりだった。


わたしはいちご味。


兄さんはメロン味。


奈津実さんはブルーハワイ。


秋帆さんはレモンだった。


「一口交換する?」


兄さんが聞く。


「しません」


即答する。


「即答かよ」


「兄さんですから」


「理不尽だな」


奈津実さんが吹き出した。


いつものやり取り。


いつもの笑い声。


それだけなのに。


幸せだった。


     ◇◇◇◇


だけど。


時々思ってしまう。


来年も。


再来年も。


こんな風に笑えるのだろうか。


先生から聞いた話。


病院で聞いた言葉。


頭の中から消えてくれない。


兄さん自身も知っている。


それなのに。


今こうして笑っている。


わたしにはそれが少しだけ眩しかった。


     ◇◇◇◇


夕方。


海は黄金色に染まっていた。


水平線へ沈む太陽。


波の音。


潮風。


綺麗だった。


兄さんは砂浜に座って海を見ていた。


少しだけ離れた場所。


わたしは隣へ座る。


「疲れましたか?」


「ちょっとな」


兄さんが笑う。


昔より疲れやすくなっている。


本人も分かっているはずだ。


でも。


何も言わない。


わたしも言わない。


言えなかった。


     ◇◇◇◇


「楽しかったな」


兄さんが呟く。


「はい」


「海なんて久しぶりだ」


「そうですね」


しばらく沈黙が続く。


波の音だけが聞こえる。


その時間が心地良かった。


ずっと続けばいいのにと思った。


     ◇◇◇◇


夜。


花火をすることになった。


手持ち花火。


線香花火。


小さな打ち上げ花火。


ぱちぱちと火花が散る。


暗い海辺を優しく照らしていた。


奈津実さんが走り回る。


秋帆さんが慌てる。


兄さんが笑う。


わたしも笑う。


まるで。


病気なんて存在しないみたいだった。


     ◇◇◇◇


そして。


最後のイベント。


肝試しだった。


「絶対嫌」


秋帆さんが真っ先に言った。


「委員長ビビってる」


奈津実さんが笑う。


「ビビってない!」


「顔が完全にビビってる」


結局。


二人一組で回ることになった。


奈津実さんと秋帆さん。


そして。


わたしと兄さん。


     ◇◇◇◇


海辺の遊歩道。


街灯は少ない。


波の音だけが聞こえる。


夜風が吹く。


兄さんの隣を歩く。


少しだけ緊張した。


兄妹なのに。


そんなのおかしいのに。


最近。


兄さんの隣にいると胸が苦しくなる。


     ◇◇◇◇


わたしは知っている。


この感情が何なのか。


ずっと前から気付いていた。


認めたくなかっただけだ。


兄さんは優しい。


昔からずっと。


わたしを守ってくれた。


泣いている時は手を引いてくれた。


怖い時は隣にいてくれた。


困った時は助けてくれた。


気付けば。


わたしにとって一番大切な人になっていた。


     ◇◇◇◇


だけど。


兄さんは兄さんだ。


家族だ。


叶うはずがない。


口にできるはずもない。


だから。


ずっと隠してきた。


誰にも言わずに。


自分の中だけで。


     ◇◇◇◇


「陽香」


突然呼ばれる。


「はい」


「どうした?」


「え?」


「元気ないぞ」


兄さんは本気で心配していた。


いつもそうだ。


自分の方が大変なのに。


わたしのことを気にしている。


その優しさが。


どうしようもなく好きだった。


     ◇◇◇◇


「何でもありません」


わたしは笑う。


兄さんも笑う。


それで終わりだった。


本当の気持ちは伝えられない。


伝えたらきっと壊れてしまう。


今の関係も。


今の時間も。


全部。


     ◇◇◇◇


肝試しの帰り道。


夜空を見上げる。


星が綺麗だった。


兄さんも同じ空を見ている。


この時間を忘れたくないと思った。


今日の海も。


花火も。


笑い声も。


全部。


     ◇◇◇◇


人には届かない想いがある。


伝えられない言葉がある。


叶わない願いがある。


わたしの心(きもち)もきっとそうだ。


兄さんには届かない。


届いてはいけない。


それでも。


好きだった。


誰よりも。


大切だった。


     ◇◇◇◇


夏の夜風が吹く。


波の音が響く。


花火の残り香が漂う。


楽しかった一日。


幸せだった一日。


だからこそ。


少しだけ怖かった。


幸せな時間ほど儚いことを。


わたしたちはもう知っているから。


     ◇◇◇◇


夜空の星は静かに輝いていた。


まるで。


言葉にならない想いを見守るように。


優しく。


遠く。


手の届かない場所で。


そして。


夏はまだ始まったばかりだった。


――第十四話「Nocturne ~月下の告白~」へ続く。

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