第十二話 ― Grave ~忍び寄る影~ ―
夏が近付いていた。
まだ梅雨は明けていない。
だけど空気は確実に変わり始めている。
教室の窓から吹き込む風も。
グラウンドの熱気も。
放課後の夕焼けも。
少しずつ夏の色を帯びていた。
◇◇◇◇
終業チャイムが鳴る。
一学期も残りわずかだった。
教室のあちこちで夏休みの話題が飛び交う。
海へ行くとか。
花火大会とか。
旅行とか。
そんな言葉を聞いていると、去年と何も変わらないような気がした。
本当は違うのに。
「奈津実」
声がした。
振り返る。
ヒロだった。
窓際の席で荷物をまとめている。
「帰るか?」
「うん」
アタシは立ち上がる。
いつもの帰り道。
いつもの放課後。
それだけなのに少し嬉しかった。
◇◇◇◇
校門を出る。
夕陽が眩しい。
隣を歩くヒロは少しだけ疲れて見えた。
前より分かるようになった。
顔色。
歩く速さ。
息遣い。
本人は隠しているつもりなんだろうけど。
幼馴染はそんなに誤魔化せない。
「大丈夫?」
思わず聞く。
「何が」
「またそれ」
ヒロが苦笑する。
「大丈夫だって」
その言葉を聞くたびに思う。
本当に大丈夫なら。
そんなに何度も言わない。
◇◇◇◇
数日後。
土曜日だった。
アタシはヒロの家へ来ていた。
理由は単純。
夏休みの予定を決めるため。
陽香もいる。
秋帆も来る予定だった。
いつもの四人。
いつもの時間。
本当に。
いつものはずだった。
◇◇◇◇
「いらっしゃい」
陽香が出迎える。
「お邪魔します」
リビングへ入る。
窓が開いていた。
風鈴の音が聞こえる。
夏の匂いがした。
「秋帆まだ?」
「もうすぐじゃないか」
ヒロが言う。
ソファに座っている。
相変わらず気怠そうだ。
でも。
少し痩せた気がした。
◇◇◇◇
しばらくして秋帆も来た。
四人揃う。
夏休みの予定を話す。
海。
図書館。
花火。
祭り。
色んな案が出る。
その時間は楽しかった。
本当に。
普通だった。
◇◇◇◇
「そういえば」
秋帆が言った。
「最近ピアノ弾いてる?」
ヒロが少し首を傾げる。
「まあ」
「聴きたい」
「わたしも」
陽香も言う。
アタシも頷いた。
するとヒロは少し困った顔をした。
「そんな大したもんじゃないぞ」
「いいから」
アタシが言う。
「久しぶりに聴きたい」
◇◇◇◇
少しの沈黙。
やがてヒロは立ち上がった。
「一曲だけな」
リビングの隣。
ピアノの置かれた部屋。
窓から夕陽が差し込んでいる。
その光の中へヒロが座った。
鍵盤に指を置く。
静かな空気。
誰も喋らない。
◇◇◇◇
最初の音が鳴る。
低く。
静かに。
そしてどこか悲しい音だった。
ドゥシェク。
《哀歌 ト短調 Op.61》。
曲名は知らなかった。
でも。
その音を聴いた瞬間に分かった。
悲しい曲だと。
◇◇◇◇
旋律が流れる。
優しい。
だけど寂しい。
まるで夕暮れみたいな音だった。
何かを失った後のような。
遠くへ行ってしまった誰かを思い出すような。
そんな音。
◇◇◇◇
アタシはヒロを見る。
真剣な横顔。
学校では見せない顔。
音楽の中にいる時だけの顔。
昔からそうだった。
ピアノを弾いている時のヒロは少し違う。
何を考えているのか分からない。
だけど。
どこか遠くを見ている。
そんな気がする。
◇◇◇◇
音は続く。
夕陽が鍵盤を照らす。
窓の外では蝉が鳴いている。
夏が近い。
本当に近い。
少し前まで遠かったはずなのに。
◇◇◇◇
不意に思う。
夏休み。
ちゃんと来るのかな。
みんなで海へ行けるのかな。
花火を見られるのかな。
そんなことを考えてしまう。
先生から聞いた話。
病院で聞いた話。
忘れられるはずがなかった。
◇◇◇◇
曲は終盤へ向かう。
悲しみを抱えたまま。
それでも前へ進むみたいに。
静かに。
穏やかに。
旋律は流れていく。
◇◇◇◇
最後の音。
余韻だけが残る。
誰もすぐには喋れなかった。
あまりにも綺麗だったから。
あまりにも切なかったから。
◇◇◇◇
「すごいな」
秋帆が小さく言う。
陽香も頷いている。
ヒロは照れ臭そうに笑った。
「大げさだろ」
「大げさじゃない」
アタシは即答した。
本当にそう思った。
◇◇◇◇
だけど。
その時だった。
ヒロが小さく咳き込む。
一度。
二度。
ほんの少し。
それだけだった。
でも。
アタシは見てしまった。
顔色が悪い。
呼吸も少し乱れている。
本人はすぐに誤魔化した。
何事もなかったように。
◇◇◇◇
だから。
アタシも何も言わなかった。
言えなかった。
楽しい時間を壊したくなかった。
せっかく。
みんな笑っていたから。
◇◇◇◇
夕方。
帰る時間になる。
玄関先。
夏の風が吹いていた。
「じゃあまたな」
ヒロが言う。
いつもの声。
いつもの笑顔。
だけど。
どこか無理をしているように見えた。
◇◇◇◇
帰り道。
空は赤かった。
夕焼けが広がっている。
アタシは一人で歩く。
胸が苦しかった。
怖かった。
何が起きるか分からない未来が。
少しずつ近付いてくることが。
◇◇◇◇
人は普通を信じている。
明日も同じだと思っている。
来週も。
来月も。
ずっと続くと思っている。
アタシもそうだった。
でも今は違う。
続かないかもしれないと知っている。
だから。
何気ない時間が愛おしい。
何気ない言葉が嬉しい。
ヒロが笑うだけで安心する。
それだけで十分だと思ってしまう。
◇◇◇◇
それはきっと。
アタシの心が変わってしまったからだ。
幼馴染としてじゃない。
もっと別の何かとして。
ヒロを見てしまうようになったから。
◇◇◇◇
夏が来る。
もうすぐ。
みんなが待っている季節。
だけど。
その夏はきっと。
今までと同じ夏にはならない。
そんな予感がしていた。
夕暮れの風が吹く。
どこか遠くで蝉が鳴いている。
まるで。
終わりへ向かう旋律の続きを奏でるように。
静かに。
ゆっくりと。
確実に。
――第十三話「Appassionato ~届かない想い~」へ続く。




