↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/24

第十一話 ― Crescendo ~崩れ始める日常~ ―

五月の風は少しだけ変わっていた。


ゴールデンウィークが終わり、学校にはいつもの日常が戻ってきている。


朝のホームルーム。


授業。


休み時間。


放課後。


何も変わらないように見える毎日。


だけど、わたしは知っていた。


本当は何もかも変わってしまっていることを。


     ◇◇◇◇


「兄さん、おはようございます」


朝食の席。


わたしはそう声を掛けた。


兄さん――裕亮は眠そうな顔でパンを齧っている。


「ん」


短い返事。


昔と変わらない。


そのはずだった。


だけど最近、少しだけ気になることがある。


顔色が良くない。


疲れたような表情をすることが増えた。


退院してからしばらくは元気そうだった。


お祭りにも行った。


買い物にも行った。


みんなで笑っていた。


だけど。


ここ数日で、また少し様子が変わり始めていた。


「ちゃんと寝ましたか?」


「寝た」


「本当ですか?」


「多分」


「多分じゃ駄目です」


兄さんは苦笑した。


その笑顔を見て、わたしはそれ以上言えなくなる。


心配していることを悟られたくなかった。


     ◇◇◇◇


放課後。


わたしは生徒会の手伝いを終えて校舎を歩いていた。


夕陽が窓から差し込んでいる。


静かな廊下。


その時だった。


遠くから音が聞こえてきた。


ピアノだった。


思わず足を止める。


どこか切なくて。


どこか激しい旋律。


風が吹き荒れるような音。


わたしはその音に導かれるように歩いた。


音楽室だった。


     ◇◇◇◇


扉の隙間から中を覗く。


そこにいたのは兄さんだった。


グランドピアノの前に座っている。


夕陽が差し込む音楽室。


誰もいない空間。


その中で兄さんは一人、鍵盤に向かっていた。


ショパン。


《エチュード作品25-11『木枯らし』》。


昔、兄さんが弾いていた曲だ。


わたしは曲名までは知らなかった。


だけど演奏だけは覚えている。


冬の日。


家のピアノ。


窓の外で雪が降っていた。


その時も兄さんはこの曲を弾いていた。


     ◇◇◇◇


音が駆け抜ける。


まるで本当に木枯らしが吹き荒れているみたいだった。


右手が鍵盤の上を駆ける。


左手が力強く支える。


音楽室いっぱいに音が広がる。


わたしは息を呑んだ。


学校で見る兄さんとは別人だった。


普段は面倒くさそうで。


眠そうで。


普通が好きだと言う人。


だけど今は違う。


音楽の中にいる。


そんな気がした。


     ◇◇◇◇


演奏は続く。


だけど。


途中で違和感を覚えた。


兄さんの肩が少し上下している。


呼吸が荒い。


額には汗。


今はそれほど暑くない。


なのに。


「兄さん……?」


小さく呟く。


もちろん届かない。


演奏は激しさを増していく。


木枯らしのように。


吹雪のように。


音が空間を埋め尽くしていく。


     ◇◇◇◇


そして。


最後の和音。


力強く鳴り響いた音が消える。


静寂。


夕陽だけが残る。


わたしは思わず拍手しそうになった。


けれど。


次の瞬間だった。


兄さんの身体が大きく揺れた。


「兄さん!」


わたしは音楽室へ駆け込んだ。


裕亮はピアノの縁に手をついている。


苦しそうに息をしていた。


顔色が真っ青だった。


「大丈夫ですか!?」


「……陽香?」


声に力がない。


呼吸も浅い。


「保健室!」


「平気……」


「平気じゃありません!」


わたしは思わず叫んでいた。


兄さんは苦笑する。


だけどその笑顔は弱々しかった。


     ◇◇◇◇


保健室へ向かう途中。


兄さんの足取りは明らかに重かった。


階段を下りるだけで息が上がる。


わたしは必死に支えた。


見たくなかった。


こんな姿。


兄さんは昔から強かった。


どんな時も。


わたしの前では。


ずっと。


だから。


今の姿はあまりにも辛かった。


     ◇◇◇◇


保健室のベッド。


先生はすぐに横になるよう指示した。


血圧を測る。


脈を確認する。


わたしは少し離れた場所で見ていた。


何もできなかった。


ただ見ていることしか。


「最近、無理しましたか?」


保健の先生が聞く。


兄さんは少し考えて。


「普通に生活しただけです」


そう答えた。


わたしは唇を噛む。


普通。


兄さんはいつもそう言う。


普通に学校へ行く。


普通に友達と遊ぶ。


普通に笑う。


だけど。


今の兄さんにとって、その普通がどれほど重いものなのか。


わたしは知っている。


     ◇◇◇◇


夕方。


連絡を受けて奈津実さんと秋帆さんも来た。


二人とも心配そうな顔をしている。


「大丈夫?」


奈津実さんが聞く。


「多分」


兄さんが答える。


またその言葉だった。


多分。


きっと。


大丈夫。


そんな曖昧な言葉ばかり。


だけど本当は。


誰よりも不安なのかもしれない。


わたしはそんな気がしていた。


     ◇◇◇◇


帰り道。


空は赤かった。


燃えるような夕焼け。


兄さんは静かに歩いている。


いつもより少しだけ遅い足取りで。


「兄さん」


わたしは呼ぶ。


「ん?」


「無理しないでください」


兄さんは少し驚いた顔をした。


そして。


困ったように笑う。


「分かってる」


その返事が。


なぜだかとても遠く感じた。


     ◇◇◇◇


風が吹く。


五月の風。


優しいはずの風。


だけど今のわたしには少し冷たかった。


今日。


わたしは見てしまった。


兄さんの変化を。


少しずつ進んでいく現実を。


見ないふりをしていたものを。


     ◇◇◇◇


人は希望を抱く。


奇跡を願う。


大丈夫だと信じる。


わたしもそうだった。


今でも信じている。


だけど。


信じることと現実は違う。


どれだけ願っても。


時間は止まらない。


季節は進んでいく。


そして。


兄さんの身体もまた。


静かに変わり続けていた。


夕焼け空の向こう。


どこかで風が鳴いている。


まるで。


木枯らしの旋律の続きを奏でるように。


静かに。


確実に。


近付いてくる運命を告げるように。


――第十二話「Grave ~忍び寄る影~」へ続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。