第十一話 ― Crescendo ~崩れ始める日常~ ―
五月の風は少しだけ変わっていた。
ゴールデンウィークが終わり、学校にはいつもの日常が戻ってきている。
朝のホームルーム。
授業。
休み時間。
放課後。
何も変わらないように見える毎日。
だけど、わたしは知っていた。
本当は何もかも変わってしまっていることを。
◇◇◇◇
「兄さん、おはようございます」
朝食の席。
わたしはそう声を掛けた。
兄さん――裕亮は眠そうな顔でパンを齧っている。
「ん」
短い返事。
昔と変わらない。
そのはずだった。
だけど最近、少しだけ気になることがある。
顔色が良くない。
疲れたような表情をすることが増えた。
退院してからしばらくは元気そうだった。
お祭りにも行った。
買い物にも行った。
みんなで笑っていた。
だけど。
ここ数日で、また少し様子が変わり始めていた。
「ちゃんと寝ましたか?」
「寝た」
「本当ですか?」
「多分」
「多分じゃ駄目です」
兄さんは苦笑した。
その笑顔を見て、わたしはそれ以上言えなくなる。
心配していることを悟られたくなかった。
◇◇◇◇
放課後。
わたしは生徒会の手伝いを終えて校舎を歩いていた。
夕陽が窓から差し込んでいる。
静かな廊下。
その時だった。
遠くから音が聞こえてきた。
ピアノだった。
思わず足を止める。
どこか切なくて。
どこか激しい旋律。
風が吹き荒れるような音。
わたしはその音に導かれるように歩いた。
音楽室だった。
◇◇◇◇
扉の隙間から中を覗く。
そこにいたのは兄さんだった。
グランドピアノの前に座っている。
夕陽が差し込む音楽室。
誰もいない空間。
その中で兄さんは一人、鍵盤に向かっていた。
ショパン。
《エチュード作品25-11『木枯らし』》。
昔、兄さんが弾いていた曲だ。
わたしは曲名までは知らなかった。
だけど演奏だけは覚えている。
冬の日。
家のピアノ。
窓の外で雪が降っていた。
その時も兄さんはこの曲を弾いていた。
◇◇◇◇
音が駆け抜ける。
まるで本当に木枯らしが吹き荒れているみたいだった。
右手が鍵盤の上を駆ける。
左手が力強く支える。
音楽室いっぱいに音が広がる。
わたしは息を呑んだ。
学校で見る兄さんとは別人だった。
普段は面倒くさそうで。
眠そうで。
普通が好きだと言う人。
だけど今は違う。
音楽の中にいる。
そんな気がした。
◇◇◇◇
演奏は続く。
だけど。
途中で違和感を覚えた。
兄さんの肩が少し上下している。
呼吸が荒い。
額には汗。
今はそれほど暑くない。
なのに。
「兄さん……?」
小さく呟く。
もちろん届かない。
演奏は激しさを増していく。
木枯らしのように。
吹雪のように。
音が空間を埋め尽くしていく。
◇◇◇◇
そして。
最後の和音。
力強く鳴り響いた音が消える。
静寂。
夕陽だけが残る。
わたしは思わず拍手しそうになった。
けれど。
次の瞬間だった。
兄さんの身体が大きく揺れた。
「兄さん!」
わたしは音楽室へ駆け込んだ。
裕亮はピアノの縁に手をついている。
苦しそうに息をしていた。
顔色が真っ青だった。
「大丈夫ですか!?」
「……陽香?」
声に力がない。
呼吸も浅い。
「保健室!」
「平気……」
「平気じゃありません!」
わたしは思わず叫んでいた。
兄さんは苦笑する。
だけどその笑顔は弱々しかった。
◇◇◇◇
保健室へ向かう途中。
兄さんの足取りは明らかに重かった。
階段を下りるだけで息が上がる。
わたしは必死に支えた。
見たくなかった。
こんな姿。
兄さんは昔から強かった。
どんな時も。
わたしの前では。
ずっと。
だから。
今の姿はあまりにも辛かった。
◇◇◇◇
保健室のベッド。
先生はすぐに横になるよう指示した。
血圧を測る。
脈を確認する。
わたしは少し離れた場所で見ていた。
何もできなかった。
ただ見ていることしか。
「最近、無理しましたか?」
保健の先生が聞く。
兄さんは少し考えて。
「普通に生活しただけです」
そう答えた。
わたしは唇を噛む。
普通。
兄さんはいつもそう言う。
普通に学校へ行く。
普通に友達と遊ぶ。
普通に笑う。
だけど。
今の兄さんにとって、その普通がどれほど重いものなのか。
わたしは知っている。
◇◇◇◇
夕方。
連絡を受けて奈津実さんと秋帆さんも来た。
二人とも心配そうな顔をしている。
「大丈夫?」
奈津実さんが聞く。
「多分」
兄さんが答える。
またその言葉だった。
多分。
きっと。
大丈夫。
そんな曖昧な言葉ばかり。
だけど本当は。
誰よりも不安なのかもしれない。
わたしはそんな気がしていた。
◇◇◇◇
帰り道。
空は赤かった。
燃えるような夕焼け。
兄さんは静かに歩いている。
いつもより少しだけ遅い足取りで。
「兄さん」
わたしは呼ぶ。
「ん?」
「無理しないでください」
兄さんは少し驚いた顔をした。
そして。
困ったように笑う。
「分かってる」
その返事が。
なぜだかとても遠く感じた。
◇◇◇◇
風が吹く。
五月の風。
優しいはずの風。
だけど今のわたしには少し冷たかった。
今日。
わたしは見てしまった。
兄さんの変化を。
少しずつ進んでいく現実を。
見ないふりをしていたものを。
◇◇◇◇
人は希望を抱く。
奇跡を願う。
大丈夫だと信じる。
わたしもそうだった。
今でも信じている。
だけど。
信じることと現実は違う。
どれだけ願っても。
時間は止まらない。
季節は進んでいく。
そして。
兄さんの身体もまた。
静かに変わり続けていた。
夕焼け空の向こう。
どこかで風が鳴いている。
まるで。
木枯らしの旋律の続きを奏でるように。
静かに。
確実に。
近付いてくる運命を告げるように。
――第十二話「Grave ~忍び寄る影~」へ続く。




