第九話:新緑の夜会と踊る道化たち
明日も21時に更新します
聖アークライト暦九九三年、五月。
王立アカデミーの大講堂に隣接する壮麗な迎賓館にて、新入生たちを正式に社交界へと迎え入れるための『新緑の夜会』が幕を開けた。
天井から吊るされた無数のクリスタルシャンデリアが、眩いほどの光を放ち、磨き上げられた大理石の床を鏡のように照らし出している。
壁際には金箔で装飾された長机が並び、王都から集められた一流の料理人たちが腕を振るった美食が、山のように積まれていた。
「……アルフレート殿下、セレフィナ・ド・ラ・マルク公爵令嬢の入場です!」
進行役の声が高らかに響き渡ると、オーケストラの演奏がピタリと止まり、会場の視線がすべて大階段の上へと注がれた。
私は、血のように深い真紅のベルベットドレスに身を包み、完璧な姿勢でアルフレート殿下の腕にそっと手を添えていた。
殿下は、私のドレスに合わせた赤い薔薇の刺繍が施された漆黒の夜会服を纏い、威風堂々たる王太子の風格を漂わせている。
だが、彼が私へ向ける視線には、周囲の者には決して分からないほどの「絶対的な依存」と「安堵」が入り混じっていた。
あの図書室での一件以来、殿下は政治的な孤独と恐怖を痛感し、私の存在なしでは息をすることすら不安に感じるようになっていた。
「……皆様が、私たちを見ておられますね、殿下」
私が小声で囁くと、殿下は私の手を少しだけ強く握り返した。
「ああ。……だが、私には君しか見えていないよ、セレフィナ。君が隣にいてくれるから、私はこうして立っていられるんだ」
「殿下……。わたくしも、殿下をお支えできることが何よりの喜びですわ」
私は扇の陰で、完璧に計算された聖女の微笑みを浮かべた。
階段をゆっくりと降りる私たちの姿に、会場からは羨望と感嘆の溜息が波のように広がっていく。
誰もが、この国の未来を担う非の打ち所のない王太子夫婦の誕生を確信していた。
だが、この華やかな光の裏側で、すでに底知れぬ闇の盤面は動き出している。
(……お嬢様。東屋周辺の『鼠』たちは、すべて処理いたしました。公爵家の影が、配置についております)
入場直前、控室でマリーが私の耳元で囁いた報告が脳裏に蘇る。
ジュリアン・ダラスが手配していた三流の新聞記者や反王太子派の小者たちは、今頃、公爵家の地下牢で冷たい石の床を舐めていることだろう。
代わりに配置されたのは、私の息がかかった腕利きの記録係と、証人となる中立派の貴族たちだ。
「さあ、殿下。ごきげんようの挨拶を始めましょう。今夜は、誰よりも輝かしくあらねばなりませんわ」
私は殿下を導きながら、会場の隅で惨めに縮こまっている「獲物」の姿を、視界の端で確かに捉えていた。
華やかなワルツの調べが響く中、私、クロエ・バリントンは、壁際の目立たない柱の陰で一人、震える手を握りしめていた。
男爵家が用意してくれた薄桃色のドレスは、この会場に集う他の令嬢たちの豪華な衣装に比べると、まるでおもちゃのように安っぽく見えた。
「……ねえ、見て。あの平民上がりの男爵令嬢よ」
「まだこの学園に居座るつもりかしら。殿下の御心を乱した罪女なのに」
すれ違う人々のヒソヒソ話が、鋭い針のように私の胸に突き刺さる。
誰も私に話しかけてくれない。
誰も私をダンスに誘ってくれない。
あの図書室での出来事から、学園での私の孤立は決定的なものになっていた。
私はただ、ジュリアン先輩の言う通り、自分の純粋な気持ちを信じただけなのに。
(……アルフレート様)
私は広間の中央で、優雅に談笑している殿下の姿をすがるような目で見つめた。
アルフレート様は、真紅のドレスを着たセレフィナ様を、まるで壊れ物を扱うように大切にエスコートしている。
私が視線を送っていることに気づいたのか、アルフレート様がふとこちらを振り向いた。
(あ、アルフレート様……!)
私は思わず一歩踏み出そうとしたが、彼のその瞳を見た瞬間、足が凍りついたように動かなくなった。
そこにあったのは、以前のような優しい光ではなく、氷のように冷たく、はっきりとした「拒絶」の色だったのだ。
彼はすぐに私から目を逸らし、何事もなかったかのようにセレフィナ様に微笑みかけた。
「……どうして。そんなに、私のことが嫌いになっちゃったの……?」
涙が溢れそうになり、私は慌てて俯いた。
きっと、セレフィナ様が何か悪い噂を吹き込んだに違いない。
セレフィナ様はアルフレート様を洗脳して、無理やり従わせているんだ。
そうに決まっている。
「……クロエ嬢。こんなところで、一人で泣いているのかい?」
不意に、優しく甘い声が鼓膜を揺らした。
涙を拭って顔を上げると、そこには鳶色の髪を綺麗に撫でつけたジュリアン先輩が立っていた。
「ジュリアン、先輩……。私、アルフレート様に……」
「ああ、分かっているよ。殿下は今、あの公爵令嬢の監視下に置かれていて、君に近づくことすら許されていないんだ」
先輩は悲しげに目を伏せ、周囲を警戒するように声を潜めた。
「……本当は、殿下も君と話したがっている。あの冷たい正論ばかりの生活に、すっかり疲れ果ててしまっているんだよ」
「え……? 殿下が、私と?」
「そうさ。だが、この大広間では公爵家の耳目が多くて、本音を語ることはできない。……だから、君にお願いがあるんだ」
ジュリアン先輩は、私の手を取り、祈るように見つめてきた。
「この広間を抜け出して、中庭の奥にある東屋へ行ってくれないか。……殿下には、私から密かに合図を送って、そこへ向かうように手配してある。二人きりになれば、きっと殿下も、君への本当の気持ちを打ち明けてくれるはずだ」
「東屋に……殿下が……」
私は、その言葉にすがりつくように頷いた。
アルフレート様が、本当は私を求めてくれている。
その事実だけで、私の心の傷は一瞬で癒やされていくのを感じた。
「行きます! 私、行きます!」
「ありがとう、クロエ嬢。君のその純粋な愛が、きっと殿下を救うと信じているよ。……さあ、誰にも見つからないようにね」
先輩の優しい言葉に背中を押され、私は足早に広間を後にした。
重い扉をすり抜け、夜の冷たい空気が漂う庭園へと足を踏み出す。
暗闇の中、胸の奥にある形見のブローチをぎゅっと握りしめながら。
アルフレート様が私を待っている。
その甘い幻想だけを胸に抱き、私は自ら、取り返しのつかない地獄の釜へと飛び込んでいったのだ。
高評価とブックマークをよろしくお願いします。
コメントへの返信はしないと思います。




