第十話:蜘蛛の糸に絡め取られる愚者たち
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新緑の夜会が華やかな絶頂を迎える中、ジュリアン・ダラスは一人、暗い庭園の小道を歩いていた。
彼の唇には、隠しきれない邪悪な笑みが張り付いている。
「……愚かな女だ。あんな甘言を、疑いもせずに信じ込むとはな」
ジュリアンは内心で、まんまと東屋へ向かったクロエ・バリントンを嘲笑した。
計画は完璧だった。
彼女が東屋で待っているところへ、アルフレート殿下が現れるわけがない。
ジュリアン自身が「殿下の使い」を装って彼女に近づき、親密な会話を交わす。
その瞬間を、茂みに潜ませた反王太子派の記者と貴族たちに目撃させ、「王太子妃候補が、夜の庭園で別の男と密会していた」という事実を捏造するのだ。
「あの純粋ぶった平民上がりが、我がダラス伯爵家の復権の礎となるのだ。……アルフレート殿下も、自らの見る目のなさを呪うがいい」
ジュリアンは足音を忍ばせ、目的の東屋へと近づいた。
月明かりに照らされた東屋のベンチには、薄桃色のドレスを着たクロエが、寒そうに肩を震わせて座っている。
周囲の茂みからは、記者たちが息を潜めている気配が感じられた。
「……お待たせしてしまったかな、クロエ嬢」
ジュリアンが甘い声を出して東屋に足を踏み入れると、クロエは弾かれたように立ち上がった。
「ジュリアン先輩! ……あの、アルフレート様は?」
「殿下は……ごめんよ。やはり、公爵令嬢の監視が厳しくて、抜け出せなかったようだ」
ジュリアンは悲痛な面持ちを作って首を振り、クロエの肩に同情するように手を置いた。
「そんな……。じゃあ、私は殿下とお話しできないんですか?」
「ああ。だが、君の想いは私が必ず殿下に伝える。君は一人じゃない、私がついているから……」
ジュリアンがクロエの肩を抱き寄せ、密会の構図を完成させようとした、まさにその瞬間だった。
「……まあ。こんな夜更けに、若い男女が二人きりで。随分と情熱的な密会ですこと」
静寂の庭園に、氷のように冷たく、そしてどこまでも澄んだ声が響き渡った。
ジュリアンが驚愕して振り返ると、東屋へと続く小道から、ランタンの眩い光を持った集団が姿を現した。
「セ、セレフィナ・ド・ラ・マルク……!?」
そこには、真紅のドレスを纏い、扇で口元を隠して優雅に微笑むセレフィナの姿があった。
だが、ジュリアンを真に絶望させたのは、彼女の後ろに控えている人物たちの顔ぶれだった。
「……ダラス伯爵令息。これは、一体どういう状況か説明してもらおうか」
地を這うような低い声。
ランタンの光に照らされたのは、学園長であるバルテル・フォン・ローゼンハイム侯爵。
そして、彼を取り囲むように、学園の風紀委員と、厳格で知られる中立派の高位貴族たちがずらりと並んでいたのだ。
(……完璧ですわ。役者は全て揃いました)
私は扇の陰で、勝利の美酒を味わうように深く息を吸い込んだ。
ジュリアンの顔は、まるで幽霊でも見たかのように真っ青に染まっている。
彼は慌ててクロエから手を離し、しどろもどろに弁明を始めた。
「こ、これは誤解です、学園長! 私はただ、夜風に当たっていたところ、バリントン令嬢が一人でいたので、声をかけただけで……!」
「偶然、ですか? では、なぜ貴方の手配した『記者』の方々が、こうして周囲の茂みに隠れておいでだったのでしょうか?」
私が指を鳴らすと、マリーの合図で、茂みから数人の男たちが引きずり出された。
彼らはジュリアンが雇った三流記者……ではなく、事前に私がすり替えておいた、公爵家の息がかかった記録係たちだ。
「彼らは、貴方から『バリントン男爵令嬢との密会現場を記事にしろ』と依頼されたと証言しておりますわ。……ねえ、マリー?」
「はい、お嬢様。その依頼書も、すでに証拠として押収済みでございます」
マリーが冷淡な声で書類を掲げると、ジュリアンの膝がガクガクと震え始めた。
「ち、違う! それは……私は、彼女とアルフレート殿下の密会を……!」
「お黙りなさい!!」
ローゼンハイム侯爵の一喝が、庭園の空気を震わせた。
「貴様、王太子殿下の御名を騙り、無実の令嬢を夜の庭園に呼び出して醜聞を捏造しようとしたというのか! それは王家への明白な反逆、そして貴族の誇りを地に落とす下劣極まりない行為である!」
「ひっ……! 違います、私は……父の命令で……!」
ジュリアンはその場にへたり込み、言い逃れようと無様な醜態を晒し始めた。
これで、ダラス伯爵家の失脚は免れない。
反王太子派の中核は、今夜完全に崩壊する。
私は、その絶景を冷ややかに見下ろした後、いまだに状況が理解できず呆然としているクロエへと視線を向けた。
「……クロエ様。貴女が信じた『優しい先輩』の正体は、このような浅ましい策謀家でしたわ」
「え……? 嘘、ですよね……? ジュリアン先輩、私を……利用したんですか……?」
クロエは震える声で、地面に這いつくばるジュリアンに問いかけた。
だが、自分の保身で頭がいっぱいの彼は、彼女を庇うどころか、忌々しげに吐き捨てた。
「ええい、触るな! お前のような平民上がりの馬鹿女、殿下への嫌がらせの道具以外に何の価値があるというのだ!」
その残酷な一言が、クロエの信じていた「純粋な世界」を粉々に打ち砕いた。
彼女は顔を覆い、声にならない悲鳴を上げてその場に泣き崩れた。
「……無知とは、かくも恐ろしい毒なのです。貴女が『自分の感情』だけを優先し、殿下や周囲の言葉に耳を貸さなかった結果が、これですわ」
私は倒れ伏す彼女に、最後の一撃となる冷徹な言葉を降り注いだ。
「貴女は、王室を貶めるための陰謀に加担したも同然。……二度と、殿下の御前にその顔を晒すことは許されません」
クロエはただ、形見のブローチを握りしめ、地面に突っ伏して嗚咽を漏らすことしかできなかった。
彼女の社会的な命脈は、今ここで完全に絶たれたのだ。
「……見苦しい真似をお見せしましたわね、学園長。後の処置は、学園の規律に従ってお任せいたします」
私はローゼンハイム侯爵に深く一礼し、踵を返した。
大広間へ戻る道すがら、夜風が私の火照った頬を撫でていく。
広間の扉を開けると、そこには不安げに私を探していたアルフレート殿下の姿があった。
「セレフィナ! どこへ行っていたんだ。ずっと探していたんだぞ」
「申し訳ございません、殿下。……少し、庭園で野良猫が騒いでおりましたので、追い払ってまいりましたの」
私が完璧な聖女の微笑みを向けると、殿下は心底安堵したように息を吐き、私の手を取った。
「そうか。……さあ、次のワルツが始まる。私と踊ってくれるね、私の唯一の妃よ」
「ええ、喜んで。……永遠に、殿下のお側におりますわ」
私は殿下の腕に抱かれながら、華やかな光の海へと身を委ねた。
愚者たちが蜘蛛の糸に絡め取られ、暗闇で絶望の涙を流していることなど、この美しい舞踏会には何の関係もないことだった。
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